ヨーク

無頼のヨークのネタバレレビュー・内容・結末

無頼(2020年製作の映画)
3.5

このレビューはネタバレを含みます

結構期待値高めで観に行ったんだけど俺はダメでしたねぇ。なんかノレなかったな。面白かったかつまんなかったかで言えばまぁ面白い方だったと思うがなんかこの映画好き! って感じにはならなかったんですよねぇ…。普通に面白いヤクザ映画ではあったと思うのだがそれ以上でも以下でもないという感じ。以下どこら辺が自分に合わなかったのか書いていく、がその前に軽くあらすじ。
戦後から00年代に差し掛かる現代まで、貧困や生まれもった境遇が足を引っ張り真っ当な社会では生きていけなかったあぶれ者、つまりアウトローたちの生き様を昭和の後半まるまるとうつし合わせるようにして描く作品で、まぁ最初に書いたように成り上がりのヤクザ映画ですね。社会から拒絶された者たちが社会に頼らずその枠に収まらずにタイトル通りに『無頼』として生きていく様を描いた作品なのである。
しかし全然グッと来ない。その理由はいくつか挙げることができるが、まず第一に都合が良すぎる。本作では主人公をはじめとして一丸となってヤクザの世界で生きていく井藤組の連中が如何に国家権力(ざっくり言えば警察)と対立していくのかや、彼らは法では掬い上げることができない連中同士で何とか生きていくために結束しているのだということが何度も強調されるのだが、しかし結局彼らは金の奴隷なんですよ。冒頭からして戦後すぐの時代に主人公は子供ながらにアイス売ったりして日銭を必死で稼いでいる。金が無きゃヤクザだって生きていけないわけだ。仁義じゃお腹はいっぱいにならないからね。本作はその現実を都合よく無視しすぎだと思うんですよ。貨幣経済ってのは国家が発行する紙幣や硬貨に信用がないと絶対に成り立たない。つまり金を使って生きていかなきゃいけないってのはもうその時点で国家の成員であり法に縛られた存在でもあるわけだ。もちろん様々な理由によって彼らは社会に両手を広げて迎えられなかったという経緯はあるだろう。だが貧困だったりまともな教育を受けずに育った人間が全員ヤクザになるわけではない。稼ぎは少なくとも他人に迷惑かけずに生きている人だって世の中にはいっぱいいるわけですよ。作中では親分(主人公のこと)に憧れてヤクザの世界に入ったから親分が引退するなら自分もヤクザを辞めて田舎で農家を継ぎます、とか宣う登場人物がいるんですけど、ヤクザ家業以外に生きていける道があるなら最初からそっちに行けよ! このクソ野郎が! と思いますよ。何が社会からあぶれた寄る辺ないものたちの『無頼』な生き様だよと思う。それで自分たちの不法行為が権力から弾圧されたときだけ「ヤクザは死ねってことか…」とか愚痴るわけだ。都合良すぎんだよテメェら。クソ格好悪いよね。
あと本作の感想でよく『アイリッシュマン』が引き合いに出されていて俺も似てるなぁ、と思いながら観ていたし多分井筒監督も結構意識してんじゃないかなと思うんだけど『アイリッシュマン』の素晴らしさはその感想文でも書いたけど、そろそろ死にそうなジジイの自分語りという体で語られる物語であることなんですよ。つまり主観の物語でデ・ニーロの武勇伝的な自慢話とかも自分を格好よく見せるために入っているのであろうと思わせるという遊びの部分があるんですね。そしてヨボヨボのジジイになったデ・ニーロが昔の俺は凄かったんだよという思い出(それも主観的な)に縋るしかない憐れな老人として描かれる。そこで提示されるのは暴力や非合法が半ば公然として罷り通った時代の終焉ですよ。でも『無頼』にはそういう仕掛けは一切なくて順を追って主人公のヤクザストーリーを見せられていくものになっている。物語のラストも『アイリッシュマン』でのデ・ニーロのような空虚さ(これは結局全米トラック組合という巨大組織の走狗として生きるしか術がなかったことに対する自己批判なんだな)はなくてヤクザ界において絶大な影響力を持ったままの主人公が余力を残しつつ悠々と引退して、あろうことか仏門に入ったり東南アジアの貧乏な子供たち(このステレオタイプな途上国的な描き方も凄い)に自分を重ねて彼らを支援しようとかしたりしちゃうんですよ。ヤクザな生き方の果てにロマンまで見ちゃってるような感じで、それはどうなのよと思いますよ、俺は。『アイリッシュマン』はちゃんとこんな生き方で得られるものは何もないっていう締め方をしてるのにさ。
あと、これは多分かなり意図的にそうしている節はあるのだが、本作は現代的な価値基準で見ると到底受け入れがたいような価値観が罷り通る作品になっているところもある。奥さんとの馴れ初めなんてハッキリ言って拉致監禁にレイプって感じだからな。パワハラもセクハラも当たり前。登場人物同士の関係性の土壌には基本的に暴力による上下関係がないと成立しないし、特に今の20代以下には本作での人間関係の何がいいのか理解できないだろうと思う。ただしかし、そこは井筒和幸という監督自体が暴力をベースとした他者とのコミュニケーションを一貫して描いてきた人ではあるし、その暴力がもたらす断絶を描いてきた人でもあるので、こういう関係性が最高なんだ古き良きものなんだと言っているわけではなくて、自分にはこういうものしか描けないんだというある種の諦念を感じさせるものでもあった。今、諦念と打とうとして、定年、と誤変換してしまったのだが、そういう意味でも本作は井筒和幸の諦念とヤクザ幻想に塗れた定年映画でもあるのかもしれない。
本作でオマージュされるヤクザ映画の数々もそれが大衆の娯楽であり、ヤクザという存在が町内のそこかしこ日常として確かに感じることができた監督の少年時代の郷愁へと繋がるものなのであろう。井筒和幸の少年時代の夢でも見ているような映画だと思えばいいのかもしれない。ただしそれが今の令和の世の、特に若い客に届くとは思えないですけどね。
しかし概ね悪口多目の感想文だけどさ、それでも都内でも井筒和幸の新作が2軒の劇場でしかやっていないってのはどうなのよと思うよ。面白いかつまんないかは観た人が決めればいいけど、こんな昭和まみれなヤクザ映画撮ってくれる監督そんなにいないよ。最初に書いたようにヤクザ映画としては面白いものではあるからな。ただ、今この映画を撮る意味というか何か時代に刺さるようなものがあるかというとそれはないだろ、というだけで。
まだ監督60代なんだから次回作待ってますよ、俺は。
ヨーク

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