【時の無い世界】
不可解な事象の数々は 認知症ではなく“走馬燈”。
そして Father ではなく Murder …。
アンソニー(ホプキンス)は既に死んでいる―。
以下 各場面を振り返りつつ 数々の死の表象について考察してみたい。
冒頭で 娘:アン(コールマン)の歩行場面に奏でられていた劇伴(と思っていた音楽)は、実は父:アンソニーの聴くCD(実際の音/環境音)である事が明示される。
つまり『非現実と思われていたものが 実は現実的事象である事』が ここでは提示されているのだ。
上記場面をはじめ 作品前半は『音楽は現実の音』として描写される。
然し中盤以降、音楽は劇伴として『非現実的なもの』として奏でられる様になる。
これは作品世界が、現実=現世から 非現実=冥府へと変わっている事の暗喩である(音楽については最期に再後述する)。
劇中、無人の住居内を フィックス或いは緩慢なトラックインショットで映したカットが 幾度も〃も挿入されるが、これが生命の気配が全く感じられない(つまり部屋には誰もいない)絶対零度の冷たさに戦慄する(キューブリックや小津の冷淡さを思わせる)。
アンソニーが執拗に拘るも 都度失念し紛失する“腕時計”も、黄泉の国の亡者に 時間なぞ必要無き事の顕れであろう。
次女:ルーシーとの邂逅場面も、記憶の回想ではなく 実際に再会しているのである ―黄泉の国で―。
劇中、人物(アンソニー)が鏡に映り込んだ場面があっただろうか、答えは否だ。
最終局、洗面台で洗顔後に 鏡を覗き込む様な姿が、真横からと正面からの二方向から捉えられるが、何れのショットにも鏡 及び彼の鏡像は映っていない、何故か。
彼が 鏡に映らぬ死者だからではないのか。
おそらく大多数の観客がスルーしてしまっただろうが、本作には決定的な “Murder” 場面が存在している。
にも拘らず何故スルーしたか。“認知症故の錯誤”と“思い込んでいる”為だ。
他者の認知を軽視した挙げ句、ミスリード ― 自身の認知を見誤っては世話が無い。
話を元に戻す。
CD(実際の音)を聴き 現実世界を生きていたアンソニー。
然しCDは壊れ=彼の現実は崩壊してゆく。
想い出そう ― 冒頭、劇伴(現実ではない音/非現実=死)の調べと共に娘:アンが彼の住居へと入っていった事を―。
否定されるCD/環境音と 肯定される劇伴。
中盤以降、音楽は劇伴に支配され彼のCDが鳴る事は二度と無い。
アンが住居に入り父と会う迄の冒頭シークエンスのみで、作品最主題が既に全て暗示されていた事に驚愕させられる。
表層主題の認知症だけでも辛いのに、深層真主題の そのあまりの酷薄に大きく狼狽えた。
そして想い、願った。
彼:アンソニーには 真実を識ってほしくないと、どうか 穏やかな上天をと…。
多くの観客達にも識ってほしくない ―辛過ぎるから―。
彼が何度か眺めていた窓外の景色。
最期に彼は“天使”に抱き締められた後、窓の外の世界へと飛んで逝く―。
その穏やかな上天を見て、私が真実を告げるのは あまりに非礼であるから―。
《劇場観賞》