Anima48

ファーザーのAnima48のレビュー・感想・評価

ファーザー(2020年製作の映画)
4.2
“私はこれから、人生の黄昏に至る旅路に出ようとしている。”認知症を公表した際のレーガン大統領の言葉だったと思う。この言葉に最初に触れたとき、認知症の言葉の意味も知らなかったし、黄昏の意味するところも知らなかった。認知症という言葉は僕の中で印象に残ったけれど、その旅路はどこか詩的な安らかさを伴った響きを持っているように思え、症例の一つである認識や記憶の不明瞭さを過去への寛容さや受容の現れのように受け取ってしまっていた、…ある種の予言とも取れるこの映画を見るまでは。

この映画を観た時の戸惑い・不明瞭さは認知症患者の焦燥感や恐怖感を教えてくれる。認知症患者の主観で話が紡がれていくために彼らの混乱・恐怖が観ているこちらにも直感的にわかる。認知症の仮想体験といってもよいのかもしれない。そのためストーリの流れは、時間の流れを正確には反映していないし、繰り広げられる光景も実際にあったことかどうかわからない。またループのように同じようなやり取りが繰り返されることもある。標準的な映画であればアンソニーを外から描き、“何度も同じことを聞く父親”という風に表現されるかもしれない。基本的には屋内で話が進行している、その部屋は構造自体は似ているけれど、色合いや家具の位置等置かれた物が変わったり部屋自体が変わったりしていて、どこにいるかわからなくなる。唐突に人物が出現するとか、僕らはストーリーや因果関係を把握するのにとても苦労する。でもそれがアンソニーの世界、認知症患者の世界。彼らは目の前のことを把握するのに必死で心細く疑心暗鬼になる。一体全体何が起こっているんだろう?チキンは消えるし、知らない男が自分の家にいて、迷惑かけるなと言ってくる。娘は結婚している、していない?目の前の中年女は誰?娘なの?さっきまで目の前にいた気立てのいい子は消えて、今は朝だと思ったら夜なのかもしれない。

理性的な人間なら、事実を元に因果関係を把握し次に起こる事を期待して行動するけれど、アンソニーはそれが出来なくなっている。因果関係を把握する以前に、今持っている記憶すらも正しいかどうかわからない。一歩進んだ先に違った世界が広がっているかもしれないし、壊れているかもしれない。まるでファンタジー映画のようで現実と幻想の区別がつかなくなってくるけれど、これは狂気ではなく症状。正しい記憶を取り戻すスリラーでなければ、現実が何層にも重なる心を探る映画でもない。通例の映画の中の“信頼できない語り手”はストーリー内の事情からそうあるのだけれど、アンソニーは“信頼できる語りが出来ない”状態だ。他者が認識している客観的な事実と食い違うと、だまされているとか話を分かってくれないと感じてしまう。自分は聡明な人間だととらえている彼には残酷なことだと思う。認知症患者として生きることは、毎日を解けないパズルの中で生きるような事で、降参しそこから退場することも許されない。アンソニーはシェークスピアの登場人物のように雄弁かと思えば子供のように脆くなり、急に喜びにあふれた次の瞬間には残酷になる。そんなアンソニーは自分が病にかかっている真実にたどり着けない。

子が老いた愛する家族と接しなくてはいけない苦痛。父が自分を自分とわからない時、子供が覚えるのは痛みだろうか諦観だろうか、やがて来る死別への惧れだろうか?老いた父は人が変わってしまったのではなく、病に苦しんでいる。その進行が収まったかに見える瞬間、まるでかつての父がよみがえったかのように思えるのではないかと思う。それは残酷な幸せの瞬間なのかもしれない。

この映画には劇的な光景はないし、身内に認知症の方がいる人がいたら心穏やかで見れないかもしれない。けれど落ち着いてもう一度みたらもっと寄り添えるのではないかと思う。繰り返し見ることで新しい発見はあるだろう、何が起こっていたかという正しいタイムラインも把握はできるだろう。それでも最初の1度目に観た時の戸惑い・不可解さという感情、彼らの心細さや恐怖への手がかりを忘れずにいたいと思った。そして自分にも将来訪れるかも知れない混沌への備えにしたい。
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