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ヒルビリー・エレジー -郷愁の哀歌-の小のレビュー・感想・評価

3.0
アカデミー賞にノミネートされそうなネットフリックス映画ということで、何気なく観た。物語は主人公の過去と現在を行き来しながら、困難な環境にある少年が祖母の愛情を受け、全米1%の富裕層に辿りつこうとする様を描く、いかにもな展開。エピソードは現実に起こったことで、マジ?という感じではあるものの、話自体はそう面白いものではない。しかし、「そもそもヒルビリーって何?」と思って調べ、原作本を読んでみたら、この映画では感じることのできないアメリカの姿が見えてきた気がする。

ヒルビリーとは何か。原作『ヒルビリー・エレジー~アメリカの繁栄から取り残された白人たち~』の著者J・D・ヴァンスによれば次のようだ。

<私は白人には違いないが、自分がアメリカ北東部のいわゆる「WASP(ホワイト・アングロサクソン・プロテスタント)」に属する人間だと思ったことはない。そのかわりに、「スコッツ=アイリッシュ」の家系に属し、大学を卒業せずに労働者階層の一員として働く白人アメリカ人のひとりだと見なしている。
 そうした人たちにとって、貧困は、代々伝わる伝統といえる。先祖は南部の奴隷経済時代に日雇い労働者として働き、その後はシェアクロッパー(物納小作人)、続いて炭鉱労働者になった。近年では、機械工や工場労働者として生計を立てている。
 アメリカ社会では、彼らは「ヒルビリー(田舎者)」「レッドネック(首筋が赤く日焼けした白人労働者)」「ホワイト・トラッシュ(白いゴミ)」と呼ばれる。>

原作本がベストセラーになったのは、映画で描かれるような主人公の立身出世の物語によってではない。<ヴァンスが「Hillbilly(ヒルビリー)」と呼ぶ故郷の人々は、トランプのもっとも強い支持基盤と重なるからだ。多くの知識人が誤解してきた「アメリカの労働者階級の白人」を、これほど鮮やかに説明する本は他にはないと言われている。>
(https://www.newsweekjapan.jp/watanabe/2016/11/post-26.php)

ヒルビリーは2016年の米大統領選におけるトランプの勝利に大きく貢献した。

世界一素晴らしい国、アメリカをつくり、支えてきたのは自分達だったはずなのに、暮らし向きは良くならないどころか悪くなるばかり。にもかかわらず、黒人や移民、「あとから来たやつら」ばかりが優遇される。アメリカの能力主義は自分達のためにはない。きれいごとしか言わない政治家は信用できないし、メディアの報道はウソばかり。

<(引用者注:能力主義は自分のためにあると、出世してきたように見える)オバマはよい父親だが、私たちはちがう。オバマはスーツを着て仕事をするが、私たちが着るのはオーバーオールだ(それも運よく仕事にありつけたとしての話だ)。オバマの妻は、子どもたちに与えてはいけない食べものについて、注意を呼びかける。彼女の主張はまちがっていない。正しいと知っているからなおのこと、私たちは彼女を嫌うのだ。>

<離婚する者が増え、結婚する者が減り、彼らが幸福を感じられなくなっているのは、経済的機会がないからだ。仕事に就くチャンスがありさえすれば、生活状態も改善されるはずだ。>

にもかかわらず、<あまりにも多くの若者が、重労働から逃れようとしている。よい仕事があっても、長続きしない。支えるべき結婚相手がいたり、子どもができたり、働くべき理由がある若者であっても、条件の良い健康保険付きの仕事を簡単に捨ててしまう。
 さらに問題なのは、そんな状況に自分を追い込みながらも、周囲の人がなんとかしてくれるべきだと考えている点だ。つまり、自分の人生なのに、自分ではどうにもならないと考え、なんでも他人のせいにしようとする。そうした姿勢は、現在のアメリカの経済的展望とは個別の問題だといえる。>
(引用は『ヒルビリー・エレジー~アメリカの繁栄から取り残された白人たち~』)

しかし、ヒルビリーはそうした自分達をなんとか正当化し、歪んだあるべき像を作り上げる。そして、そこにトランプが登場する。(以下、ウェブの記事『日本人がまったく知らないアメリカの「負け犬白人」たち』より引用)。
(https://gendai.ismedia.jp/articles/-/50253)

<生まれ育ちに恵まれず、ワルかもしれないけれども、馬鹿かもしれないけれど、純真で、(喧嘩が強かったりして)頼りがいがある――ようなホワイト・トラッシュ、ヒルビリー、あるいはレッドネック像が、人気ドラマのいろんなところに氾濫した。「いいヒルビリー」「悪いヒルビリー」に続く、「かっこいいヒルビリー」の誕生だった。>

<そこから先は、誰も彼もが通過儀礼のようにMVでトラッシュを演じたがった。「かっこいいヒルビリー」の姿をスターが演じることを、客の側も望んだ。
 この現象が大きく拡大したのは、オバマ政権が発足してからだ。言い換えると、リーマン・ショック後、いつになっても根本的な治癒が始まらないアメリカ経済に嫌気が差せば差すほど、「成功者と非成功者」とのあいだの格差が開いていけばいくほど、この「トラッシュ・ブーム」は加速していった、ように僕の目には見えていた。
 こう言ってもいいかもしれない。「逸脱への(あるいは、逸脱しても生きていける強さへの)渇望」、あるいは「法の外にある(ような気がする)正義への憧憬」と……。>

<「既存の価値観に打ち負かされることなく、たくましいトラッシュのように、自由に胸を張って、誇り高く人生をまっとうしたい」>

<しかしそれは、TVの世界、音楽の世界の流行の話だ。そんなものを真に受けてもしょうがない――普通はそう考える。だが、「真に受けすぎて」しまう人もいる。
 だって、いまそこに、「TVのなかにいたときそのまま」の、とてもわかりやすい口調で話をしてくれるあの人がいるのだから。「フィクショナルなキャラクター」のはずなのに、TVから出てきて「大統領になる」なんて言ってくれているのだから!――。>

2020年の大統領選でトランプは選ばれなかったけれど「敗者であることは自分の責任ではなく、政府、社会のせい」「子どもたちは自分たちよりも貧しくなる」と考えるヒルビリーのメンタリティーが変わったわけではないだろう。そしてこのメンタリティーには日本にも通じそうな普遍性を感じてしまう。

配信で本作を再度観た。ヒルビリーのメンタリティーを描いてはいるものの、個人に落とし込まれ、社会全体の大きな問題として感じられない。何故、そうなのかについては、『ヒルビリー・エレジーの映画化はなぜ低評価なのか?』という記事(URLはこの段落の下)が詳しいけれど、自分的にはアメリカという国が少しだけわかったような気になり、日本の将来を想像するきっかけになってくれた映画だったかな。
(https://wedge.ismedia.jp/articles/-/21462)
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