平野レミゼラブル

ドライブ・マイ・カーの平野レミゼラブルのレビュー・感想・評価

ドライブ・マイ・カー(2021年製作の映画)
4.7
【対話】
バリバリにキマッた画面に惚れ込み、好きになる作品がある。
『ドライブ・マイ・カー』もその内の一つであり、予告編にも流れる「走る赤いサーブ900ターボのサンルーフを開け、ドライバーの女と助手席の男2人が煙草を突き出し煙を燻らせる」画を見た時、心の奥底から震えが来るほどに格好良いと思ってしまったのだ。

本作は村上春樹の同名短編を、市民参加のワークショップから生まれた企画を5時間17分という大長編としてまとめながら各種賞を総なめにした『ハッピーアワー』の濱口竜介監督が映画化したものだ。『ハッピーアワー』の評判は既に伝え聞いていたものの、いかんせんその『七人の侍』すら凌ぐ超長尺に尻込みしてしまい観ることが出来ず、濱口監督作品自体が食わず嫌いの状態になっている。
本作は既にカンヌで4冠を獲ったことで話題になっており、上映時間も3時間超と確かに長尺だが尻込みする程ではない為、割と観に行きやすい条件ではあった。しかし、濱口作品のスゴ味を知らない&村上春樹作品も一度も読んだことがないW食わず嫌いと「話題作なのにちっとも琴線に触れなかったらどうしよう」という不安も同時に発生していたので、それでも観に行きづらい条件の方が強い状況だった。
そのような中で早々に観に行ったのは、やはり「サンルーフから突き出された煙草の煙」の画が強く心に染み付いて離れなかったからだと感じる。

そして実際に観に行った感想なのだが、作中の言葉を借りて表現するならば「“映画を観ている”間、まるで“映画を観ている”ことを忘れるようだった」。それほどまでに映画に没入してしまい、終始圧倒された。
これもまた語り尽くされた言葉だろうが、映画を観ている間は3時間という長尺が全く気にならないレベルであり、会話を中心としており特に劇的な出来事が起きるワケではない静かな映画としては驚くべきことだ。映画を観ていて思わず時計を確認したのはただの1回で、それもアバンが終わり、キャストが表記された瞬間だったのだが、この時点で40分経過していたことに「体感時間が短すぎる…!」と逆の意味で驚愕していたのだから恐れ入る。
これこそが時間の魔術師・濱口竜介の実力の一端ということなのだろう。

『ドライブ・マイ・カー』は「対話」の物語だ。日本語、英語、台湾語、韓国語といった言語に加え、手話といった身振り手振り、さらには本合わせやテープに合わせての台詞合わせといった芝居、果てはセックスに至るまでを対話と捉えている。
対話の相手は様々であり、むしろ範囲を広げれば人外にも「対話」は成り立つ。犬との戯れは犬との対話と言い換えられるし、本作で「対話」と同じくらい尺を取り中核を成している「運転」ですら車との対話と捉えられなくもない。
そして、その全ての「対話」に共通することとして「対話する相手の真意を完全に理解することは決して出来ない」ことが挙げられ、それは作中真理となる。

だからこそ登場人物全員は他者との対話に思い悩み、心の内に秘めた言葉をどのように発信するのかを追い求めている。先に挙げたように対話の形は多様であるが故に、それぞれアプローチは異なってくる。
ある人はセックス後のピロートーク中にイタコのように物語が降りてきて福音をもたらすし、ある人は対話を続けることがどうしようもなく苦手でセックスや暴力といった方法に訴えざるを得なくなる危うさを見せつける。
誰も彼もが言語どころかそれぞれの分野で独自の対話方法を持ち、共通することがないのだから、相互理解など不可能というのは当然というものだろう。それでも、人は他者と繋がりたがり、他者を理解することを求める。
作中ではそのことを最終的に「己の心の内と向き合うこと」であると結論付けた。完全な相互理解とは謂わば、己の向き合いたくない苦しみや醜さも含めた真実を相手に見出して向かい合い、それを受け入れることに他ならない。どこまで行っても自分しかないワケだが、相手のことが決してわからない以上、自分の感じた全てを真実として受け入れる以外に道はない。

そう考えると「サンルーフから突き出された煙草の煙」に私が何故心震わされたのかも見えてくる。
車の中というのは一種のパーソナルスペースと言える。助手席に乗せる人物を選び、例え乗せたとしても自らが望む者とのみ対話が赦される。だからこそ家福は最初、亡き妻と一緒に大事にしてきた愛車にドライバーのみさきを乗せたがらなかったし、乗せたとしても妻のテープを流した台詞合わせに終始して対話を拒んだ。
しかし、物語が進むにつれて次第に家福はみさきに心を許していき、対話をすることで少しずつパーソナルスペースへみさきが浸食することを赦す方向に変わっていく。これは、みさきの「車に乗っていることを忘れるようなドライビングテク」の賜物であり、みさきの対話への繊細な向かい方を家福が好ましく思ったからではないかと感じた。

そうなると、車内で煙草を吸うということはパーソナルスペースにおける最大の許容である。狭い空間で害となる煙を排出することを良しとしているのだから。
しかし、それでも互いに互いが息苦しくならないよう想いやり、サンルーフを開けて車外へと煙を逃す。他人の心の内を正しく理解するのは不可能だとしても、人同士が真に想い合い、尊重したからこその美しさが「サンルーフから突き出された煙草の煙」には詰められているのだ。

また、煙は己の秘めたる醜い想いとも取れる。相互理解が己の真実と向き合い吐き出すことと捉えたならば、吐き出したそれは副流煙のそれと同じ害ある苦しみだ。そして、外に出した苦しみは背後へ背後へと流されていって沈殿していく。本作のドライブ描写では「前へ進む車の画」ではなく「後ろへ伸びていく道の画」が頻出するが、これはこの背後へと漂っていく煙を強調するが為だろう。

生き続ける限り苦しみは溜まっていき、余剰分は排出される。生きること、即ち走り続ける以上、排出された苦しみは背後へと流れていくため、いずれ振り返るその日に見えることになるのは苦しみの山だ。
だからこそ、家福とみさきのドライブの果てに振り返った時に見えるのは「サンルーフから突き出された煙草の煙」であり、それを見たからこそ旅の終点で2人はお互いの罪を告白し合うのだ。亡き妻を、亡き母を、亡き親友を語り合い、その上で互いに自分を真に理解した2人は「大丈夫だ」と抱き合うのだ。家福とみさきにもたらされた福音が何よりも美しい。



作中で家福達が演じることになるチェーホフの『ワーニャ叔父さん』の実質的な実写化作品でもあり、また村上春樹の表題作以外の短編の要素も加わっているとのことなので、そのどれもを読んだことがない自分にとっては、かなり粗削りな感想となった。
正直、とんでもなく的外れな解釈をしているような気がしてならないし、作中で流れる複雑な哲学の咀嚼に困る場面も多々あった。
しかし、「対話」を「己の心の内と向き合うこと」として、それを吐き出すことを是とした本作の感想としては、例え不格好であっても今現在の自分の正直な心の内を晒すことが礼儀であり敬意であるとも感じたため真っ正直な駄文を晒した。
作品の格好良さに引っ張られて、文体もかなり気取った形になったが、その影響をすぐに受けてしまうダサさも含めて「真実」であり「自分」なのだ。だから仕方がないと予防線を張っておく。これまたダサいがこれもまた「自分」である。

個人的解釈以外の部分、純粋な物語としての面白さにも触れておこう。
3時間に渡り「対話」と「ドライブ」と「芝居稽古」だけで構成されている作品であるが、そのどれもに観客をのめり込ませる没入感があるというのは、やはり並大抵のことではない。上映時間中は画面の中の対話に、我々も呑まれるが如き気迫が感じられるのだ。
特に白眉なのが家福と彼がオーディションで選んだ高槻という役者の間で何度も交わされる対話。実は高槻は家福が亡くした妻・音と肉体関係を持っていたような疑惑があり、そのこともあって互いに探りを入れ合うような対話はとてもスリリングなモノとなっている。
都合2回バーで繰り広げられる舌戦も相当な見応えだったが、車内で交わされる最後の対話についてはそれらよりも遥かに抜きん出て秀逸であり、対話にまるで剥き出しのナイフを向け合う殺し合いのような鋭さを伴っていた。高槻を演じる岡田将生という俳優は元々顔だけでなくその演技力も申し分はないと思っていたが、本作の演技のスゴ味はこれまで魅せてきたどの顔とも違うもので度肝を抜かれた。あの時、画面と対話を支配していたのは紛れもなく岡田将生であり、彼にとっての間違いなくベストアクトであろう。

家福はそれこそ濱口監督のようにワークショップも開く劇役者であり演出家でもあるため、作中で上映される劇もワークショップによって創られるものとなっている。
恐らく『ハッピーアワー』での濱口監督が体験したことも組み込まれているのだろう。だからなのか、ワークショップでの演劇は非常にリアルで、だからこそ自分もこの中で本合わせをしてみたいというような欲求まで湧き上がってきてしまった。
芝居もまた「対話」であり、他者の形作った役柄を身に纏い自分を曝け出す行為はそれこそ恥ずかしいし、何よりも勇気のいることだ。それでも、本作で最終的に家福が選んだ道や、対話の行く末を観たからにはより一層何か挑戦してみたいという意欲もむくむくと湧いてくるような気持ちになった。
これもまた、濱口流の没入感が成せる技なのだ。相互理解は不可能としながらも、観る者の心をここまで揺り動かし、観客×映画の渾身の対話を為し遂げたその力量は疑うべくもない。この対話を経験しただけでも本作を観た価値があったというものだ。

超絶オススメ!