むぅ

あの夜、マイアミでのむぅのレビュー・感想・評価

あの夜、マイアミで(2020年製作の映画)
4.2
そう、何度も気付かされるのだ。

命の尊さに違いなんてない。
みんな同じ人間で、この地球で生きている。
でも1人として同じ人はいない。
みんな違う。

でも、どうしてもカテゴライズが起こる。
マイノリティで言ったら
・人種(Race)
・民族(Ethnicity)
・ジェンダー(Gender)
・宗教(Religion)
・障がい(Disabilities)
などがあるのだと思う。そのグループに属することは、自らの“選択”ではない。属しているカテゴリーが一つということもない。
LGBTQだってそうだ。私は安易にその言葉を使ってしまっているけれど、一つの要素なだけであってそれで何かが決まるわけではない。
飲んでると巻き起こる「血液型当てクイズ」や「SかMか論争」もきっとそれの一つ。

分かっているはずなのに、やっぱり“人種”という括りで人を見ている自分に気付かされた。

実在した4人の黒人。
マルコムX、カシアス・クレイ(後のモハメド・アリ)、サム・クック、ジム・ブラウン。
それぞれが、その分野で功績を挙げており影響力がある。だからといって差別されないことはなく、その立場の苦しみと黒人であることの意味を、ある夜4人が集まったモーテルで露わにしていく。

1964年2月
公民権運動真っ只中。
半年前の1963年8月にワシントン大行進でキング牧師が「I Have a Dream」の演説をし、翌9月にKKKが教会を爆破し黒人の少女4人が亡くなった。更に11月にはジョン・F・ケネディが暗殺される。
そんな激動の時代の2月の夜。
この5ヶ月後に公民権法が制定される。

本当はカシアス・クレイのヘビー級世界王者のお祝いをするつもりだった4人を、黒人としていかに生きていくのか・功績のある自分達だからこそ何が出来るのかという問題に向き合わせたのはマルコムX。この夜の約1年後に暗殺される彼はもう自身の命が危ういことに気付いていた。
だからこそ、バトンを託す意味もあったのだろうか。攻撃的に話題をふっかけていく。

痛々しいまでに“差別”について口にするマルコムX、明るく軽口を叩きふざけているように見えるがブレずに行動に移せるカシアス・クレイ、白人を利用する割り切っていると言うがその自身のスタイルに苦しんでいることを口に出せないサム・クック、受けてきた差別への苦しさを心の底に沈める強さと辛さを抱えるジム・ブラウン。

「露骨に嫌悪感を出す奴らの方が、自分が差別していないと誇らしげに語る奴よりマシだ」の言葉が痛かった。
自分は後者になっていないだろうか。
差別と向き合いきれず、その人を傷つけるんじゃないかという不安から距離をとってしまって相手を傷つけたことがあるんじゃないだろうか。
自分のフィルターを外して、純粋に相手と向かい合うことの難しさ。私のフィルターはなかなか外れそうにない。なので、外すのではなくてフィルターにどんどん穴を開けて、その穴を広げていってみようと思った。いつか枠だけになるように。

“この夜”より2年前に『グリーン・ブック』
同じ年に『ミシシッピー・バーニング』
翌年に『グローリー/明日への行進』
その前後30年間を『大統領の執事の涙』
“人種差別を扱った映画”ではなくて、“登場した人々の数だけの人生の物語”として、改めて観たいと思った。
むぅ

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