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女と男のいる舗道のKKMXのレビュー・感想・評価

女と男のいる舗道(1962年製作の映画)
4.6
 本作に邦題を付つけ直すなら『無情の世界』、英題をつけるなら “You Can’t Always Get What You Want” ってとこですかね。

 女優志望のナナがなす術なく娼婦に落ちていく物語。モノクロでドライな空気感を用いてひとりの女の悲劇を描きますが、逆に切なさが伝わりました。また、実存主義哲学の香りがそこはかとなく漂います。
 浮ついて薄っぺらな前作とは異なり、本作はしっかりと人文科学の映画って感じでした。ゴダールもこういうドラマっぽいガーエー撮るのね。

 ナナはレコード屋で働いています。女優志望ですがチャンスも何もない。正直、努力の影が見えないのでそれも致し方ない印象です。
 で、カネもなくなったナナはひょんなことから売春に手を出して、娼婦の旧友を頼り、本格的に風俗の世界に入っていく…というストーリー。


 ナナは結構哲学的な語りをします。終盤に用意されている哲学者との対話を待たずに、彼女は自分の哲学を語ります。
「私はすべてに責任があると思う。自由だから。不幸になるのも私の責任。すべてを素敵と思えばいい。あるがままに捉えればいい。人は人だし、顔は顔、皿は皿よ」

 何気にこのセリフは重要な印象を受けました。ナナの言っていることは一見正しい。その通りと言えばその通り。しかし、それでナナの本当に欲するものが手に入るのか?それも自分の責任よ、という言葉はまるで諦めとか反動とか、そういった感情から来てないだろうか?


 自由。確かに素晴らしい概念です。しかし、さまざまな選択肢から何かを選択することは、人間にとってかなり負荷のかかる作業だと思います。本当に欲しいものを、選びたいものを理解するには時間がかかります。
 何かを自己決定で選ばなければならない。そしてそれに責任を持たねばならない。それは結構キツい。サルトルが『人は自由の刑に処せられている』と述べるのもよく理解できます。

 ナナはまだ若いです。自由が故に欲する何かを選ぼうとしても、自分が真に求めるものからは外れていく。そして行き詰まっていく。ナナにのしかかる厳しい現実は、ナナの自由意志による選択の結果であり、責任を取らざるを得ない。そんな状況で「素敵と思えばいい」とうそぶくナナに、俺は悲しみを感じました。いろいろしょうがないのかもしれないけど、なんだかナナは可哀想です。


 そして終盤。ナナの問いに対しての答えが用意されていました。ナナはダイナーで哲学者と対話します。哲学者はこう語ります。
「真実の愛を見つけるには、成熟と探究が必要だ」
 そしてこうも語ります。
「会話すること、考えること、表現することは大事だ。考えることは、日常から別の次元への飛翔だ。人は正しい言葉を見つける必要がある。誤りから見つかる真実もあるのだ」

 ナナは本当に欲しいものがわからない。わからないからいつも手に入らない。彼女は若く、成熟と探究を深めるにはもっと時間がかかるのでしょう。誤りから見つかる真実もある。正しい言葉なんて、試行錯誤しなければ見つからないです。過ちを繰り返してこそ、何かにたどり着くのではないでしょうか。
 ただ、ナナは過ちに対して責任を取らされてます。探究への余裕はないのかもしれない。その現実が彼女を追い詰める。
 しかし、話すことに意味はあるのか、と哲学者に問う彼女は、探究から目を逸らしてきたのかもしれません。そう考えると、本作は自由からの逃走を続けた彼女が、本人が語るように責任を取っていく話なのかもしれないですね。
 とはいえ、やはりそれも致し方ないようにも思えます。なので、ある種の人がたどらざるを得ない普遍的な悲劇が、本作では美しく描かれているように感じました。


 主演はアンナ・カリーナ。前作ではフェミニンな魅力全開でしたが、本作ではショートカットでシックな装い。個人的には100億:0で前作のカリーナちゃんの方が好きです。
 いや、マジで、なんであのくしゅくしゅロングを切ったのか。あのくしゅくしゅロングこそキュートさの結晶だったのに!もちろん、ショートの方がシャープでシリアスな本作には相応しいのですけどね。

 やはり人生ままならないぜ、人生は “You Can’t Always Get What You Want” ってことで。やはりストーンズは偉大です!
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