Shingo

こちらあみ子のShingoのレビュー・感想・評価

こちらあみ子(2022年製作の映画)
3.0
あらすじやコメンテーターの言葉では、「純粋無垢なあみ子」と形容されているのだけど、ほんとにそう思ってる?まあ確かに、自分の思ったとおりに行動し、思ったことをそのまま言葉にしている点では純粋無垢と言える。
しかしその純粋さは、どこまでも一方通行で誰にも届かないままだ。
トランシーバーで「こちらあみ子」と語りかけても、応答する人はいない。

あみ子は周囲の人間を、本当に"人間"として認識しているのか。坊主頭の少年が「ちなみに俺の名前は~」と言っても、まるで関心を示さない。
どこまでもあみ子は、自分の視点でしか物事をとらえることができないでいる。他者の視点でものを考えることが絶望的に苦手で、だから他者との間に常にすれ違いが起きてしまう。
こういう特性を「純粋無垢」と呼ぶべきかは疑問だ。

その純粋さが、家庭をも崩壊させる。
庭にある金魚やカブトムシのお墓のとなりに「弟の墓」をつくって母親にみせる場面は、あまりにも残酷だ。本人はよかれと思ってやっているのだが、あみ子にとっては人間も金魚もカブトムシも同列の存在なのか。
そんなあみ子に付き合わされ、あまつさえ「好きだー!」と言われたのりちゃんにとっては、もはやトラウマでしかない。
観客はあみ子に同情するより、母親やのりちゃんの気持ちに自分を重ねてしまうだろう。
あみ子に「離婚するの?」と訊かれた父親だって、「わざとやったのか?」と疑ってしまうのではないか。

そういう地獄絵図が次々に起こり、手に負えなくなった父親はついにあみ子を祖母の元に預ける。事実上、あみ子を捨てたと言ってもいいだろう。
最初から最後まで誰も救われず、幸福になることはない。
いや、あみ子にとっては、人気のない海辺の田舎町に移ったことは、幸福であったのかも知れない。なぜなら、彼女を日夜悩ませていた「おばけ」からようやく解放されたからだ。「おばけ」たちに元気に手を振ったあみ子は最後に「大丈夫じゃー!」と叫ぶ。

あみ子自身は、自分をどういう人間だと感じているのか。
自分が他人とはどうも違っているらしいことには気づいているが、具体的にどこがどう違うのかはわかっていない。それを人に尋ねても、具体的な答えは返ってこない。
世界の中で、彼女は常に孤立している。

本作はある意味で、アリ・アスター監督『ボーはおそれている』と酷似している。あみ子は親の立場からすれば、愛情を注いでも真っすぐには返してくれない存在だ。それはボーも同じであり、だからこそ母親は狂ってしまったともいえる。あみ子の母もまた、精神を病んで家を出ていったのか、途中から姿を消してしまった。
ボーとあみ子は、その性質において似た者同士という感じがしてしまう。

主演の大沢一菜の存在感は圧倒的であるが、私が彼女を最初に見たのはドラマ「姪のメイ」だった。本郷奏多が扮する叔父と姪のメイが、1か月だけ福島で一緒に暮らすというストーリー。それはどこか、この映画の続きのようでもある。
都会の喧騒から離れ、広い海と空に囲まれた環境でのびのびと暮らすメイの姿と比べて、もしあみ子もそういう環境で育っていたら、ここまでヒドイことにはならなかったのではと思わざるを得ない。

正直に言うと、本作で監督が何を描こうとしたのかが、いまいち掴めないままだ。原作小説を読めば何かわかるかも知れないが、映画を見た限りでは、あみ子という存在をそこまで好きにはなれなかったし、笑ったり泣いたりできる話とも思えなかった。
悪意のない無神経さが人の心をひねりつぶすような、そんな悲劇をみせられた気がしてならない。そして、誰かを責めることもできない虚しさだけが残るのだ。
Shingo

Shingo