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猫は逃げたのShingoのレビュー・感想・評価

猫は逃げた(2021年製作の映画)
3.2
猫の住む星に僕らは生きている。
カンタ(猫)の視点から、愚かなニンゲンたちがしょうもないことで右往左往する姿を眺めているような、楽しい猫映画。

夫婦がもめてたり、編集者とイチャコラしていても、知らんがなとばかりに散歩にでかけるカンタ。浮気に夢中なニンゲンを尻目に、カンタはミミちゃん一筋だ。
でも、拾われた恩は忘れていないのか、二人が離婚届けにサインする際にはおしっこをして邪魔をする。そもそもカンタを拾わなかったら二人は結婚してなかったし、あっさり離婚してしまっていただろう。
ペットロスにならないようにちゃんと置き土産まで残して虹の橋を渡ったカンタは、ニンゲン以上にできたやつだ。まさに猫の恩返し。

雑誌記者の町田広重には、主体性というものがない。
結婚する前、漫画家の亜子にプロポーズするもなかなか婚姻届けは出さず、「生理がこない」と言われて逃げ出す。相手が望んでいそうだからプロポーズしただけで、結婚したかったわけではないのだろう。
亜子の方もカラオケに「あなたに会えてよかった」をリクエストした時点で別れを覚悟していた。
それでも、カラオケの外で子猫のカンタを拾い、二人で面倒をみるならと結婚に踏み切ることになる。
亜子に子どもはできていなかったが、結果的にカンタが子どもの役割を担っていたとも言える。二人にとって結婚とは、「カンタの面倒を見る」という役割を果たすためのものであり、広重の浮気がなくとも、カンタの死とともに別れるのは必然だったのかも知れない。

本作では、「結婚」することの意味について、ゆるっと考察している。
ただ好きな人と一緒に暮らすことが結婚の意味なのか。あるいは、共同生活を営む中でそれぞれが「役割」を担うことが結婚なのか。
子どもをつくり家庭を持てば、自ずと父親・母親の役割が割り振られるし、養育の責任が生じる。それが本来の結婚の意味だったとすれば、子どもを持たずに結婚することの意味とは何なのだろう。
家制度が解体され、恋愛結婚が主流となった現在において、改めて結婚の意味は問い直されている。

味澤監督の「ノーパン夫婦」のくだりは最高に笑えるが、割とここは重要なポイントでもある。監督は映画のテーマが「アガペーがエロースになった」こととのたまうが、真実子は「周回遅れだ」と一蹴する。
これは「家制度が解体され、恋愛結婚が主流となった」ことを小難しく表現しているだけであり、目下の課題はその結果、結婚とは何なのかがわからなくなった、そもそも結婚って必要ですかね?と指摘するのだ。
これに対し、広重がまともに答えられないのも、彼の主体性のなさを感じさせる。

後半は真実子がカンタを”誘拐”し、編集の松山がその共犯者にされるが、カンタがいなくなったことで逆に夫婦は結束する。ここでも、夫婦とは何らかの役割を担うことで成立する関係であることが示唆される。
結局カンタは自分で逃げ出し家に戻ってくるが、その後の4人がそろってお互いの不平不満をぶつけあうくだりがまた面白い。
それぞれの浮気相手の方が本気で「好き」という気持ちを吐露するのに、すでに夫婦仲が冷めている二人がハモってしまう。
もう愛がないのに、その二人の方が共振しているというのは、ある意味で滑稽である。しかしこの「共振する関係」こそが、結婚することの意味であるとも言えそうだ。

一匹ずつ子猫を引き取った4人は、河原で記念写真を撮る。
夫婦は離婚し、真実子と松山は同棲を始めるというが、これからも彼らは猫からニンゲンとして大事な何かを学んでいくに違いない。
くっついたり離れたり、なぜ結婚するのかと悩んだり。そんなことに一喜一憂するニンゲンよりも、自分の一生を迷うことなく全うしたカンタの方が、よほど立派だ。

最近は猫漫画がずいぶん増えた。「俺、つしま」「夜廻り猫」「おじさまと猫」「ニャイト・オブ・ザ・リビングキャット」「カワイスギクライシス」etc...
書店には猫雑誌が並び、SNSには猫の写真が日々アップされ続ける。
もはや地球は、猫を中心にまわっていると言っても過言ではないのではないか。万物の霊長などと驕ることなく、私たちは猫たちから生きる意味を学ぶべきなのだ。
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