朱音

LAMB/ラムの朱音のネタバレレビュー・内容・結末

LAMB/ラム(2021年製作の映画)
4.0

このレビューはネタバレを含みます

視点をひっくり返して観ればなるほど、人間に我が子を奪われたばかりか、(愛しているかどうかは別として)妻を無惨に殺され、我が子は人間同然として、人畜の如くに育てられている。その怒りと憎しみは正当なものであり、これはれっきとした復讐の物語だ。
そこに人間側の事情なんぞ差し挟む余地がない。

羊から生まれた半獣人の子供に、亡くした自分の娘の名を付けて育てる。なんとも言えない切なさと、静かな、だが強靭な狂気が感じられる作品だ。


賛否両論の本作だが、こういう斬新な映画を観たいがために映画鑑賞を続けているようなものだ。私は全面的に支持したい。
今までに観た事がない映像が観られただけで、"映画"としての価値は存在する。刺激や想像力はその賜物だ。


冒頭のシーンがまた印象的だ。地を這うように迫ってゆく"何か"の視点。姿かたちは描かれず、その息遣いだけが伝わってくる。
そんな何者かの姿を見かけた野生馬の群れは、来た道を思わず後退りしてしまうほど怯えている。
そして得体の知れない存在は、羊がいる納屋に辿り着く。羊たちは恐怖のあまり、その場から逃げ出そうとするが、柵があるので逃げることが出来ない。
そして一匹の雌羊がヨタヨタと柵の中から出てきて、力尽きたように地面に倒れ込む。

残された羊たちは、得体の知れない何者かが居る入口を見つめている。

劇伴の通低音も相まって、この極めて不気味で不穏なイントロから本作は始まる。この強烈に観客の心を鷲掴みにする一連のシークエンスに、バルディミール・ヨハンソン監督の力量が感じられる。


作品の解釈を全て観客に委ねるというヨハンソン監督のポリシーが、全編を通じて貫かれている本作は、全ての物事に含まれた意味性を、曖昧なものにしている。解釈は人の数だけ存在し、この映画は作者の手から離れることによってその価値を樹立させているのだ。

ヨハンソン監督はこう語る。

「長い時間かけて脚本を書き、映像化に取り組んできたので、私自身にとっても、作品のイメージ、そこに込めた意味が変わっていきました。新たな意味が見つかった部分もあります。完成作を観た人から、私が考えもつかないテーマを教えられることもあり、それを私も受け入れます。そんな風にそれぞれの立場で映画を解釈してほしいんです。」


主人公の名前がマリアで、羊がモチーフとなれば、キリスト教の影響が色濃い寓話的なストーリーかと思われる。だが本作、『LAMB ラム』はその予断を許さず、果てはギリシャ神話や北欧の色々な民話をもモチーフとして取り込むかのような柔軟さを持ち、考察する項目には枚挙に暇がない。


例えば終盤に登場する獣人は、ギリシャ神話に登場する山羊の角を持つ、半人半獣の精霊であり怪物の「サテュロス」をモチーフにしているようにも思われる。サテュロスは文献によると、「自然の豊穣の化身」として表現されており、踊りと音楽を愛す怪物だ。そういえばアダはペートゥルの叩くドラムを聴いていたり、マリアとダンスを踊ったりと音楽が好きであるかのように描写される。アダにはこの、サテュロスの血が流れているのかもしれない。

その一方でサテュロスの名は、古代ギリシア語の「種をまく者」という意味もあり、"男性器の象徴"であり”欲情の塊”という説もある。たしかにこの『LAMB ラム』という作品には、セックスがモチーフとして描かれ続ける。
マリアは義理の弟であるペートゥルから風呂を覗かれ、性的な誘いを終始受け続ける。彼の性欲の的となり、常に身の危険を感じているのだ。そんなマリアが猛々しい雄羊たちの夢を観るシーンがある。その雄羊の大きな角は、古代エジプトでは男性の"生殖力"を象徴しているらしいが、明らかにギラギラと目を光らせる羊たちには性的な暗喩を感じられる。また物語後半では、マリアとイングヴァル夫婦の濃厚なセックスシーンも描かれる。そしてこれら性的な場面と、サテュロスの存在を通じて、あの印象的なラストの意味を紐解いてみるとする。

獣人に夫イングヴァルを殺され、悲しみに暮れる妻マリア。そして自分の下半身を一瞬観て、天を仰ぐラストシーン。これは恐らくイングヴァルとの間に子供を授かったことを表現している。
最愛のアダはどこかへ連れ去られてしまい、夫も失ったマリアだが、自分の子供を妊娠したことで他者の子供への執着から脱却したという、ある種の"解放"を表現しているのだと感じた。あのラストシーンは娘を亡くたことから人間の欲望にまみれ、子供を取り上げた上に母羊を殺すという大きな罪を犯したマリアが、夫を殺されるという最悪の悲劇に襲われたことで罪を償い、新しい希望を得たという場面だと解釈出来るのだ。

本作は、アダという異質な"生命の誕生"をテーマに置いた作品のため、やはり性交渉は切り離せないモチーフだ。そして愛し合う夫婦のセックスによって、新たな命を宿したというラストカットは、たしかに本作のエンディングに相応しい。

『LAMB ラム』というタイトルは、快楽と欲情の怪物「サテュロス」を現わしており、本作は"性と誕生"の物語だったという事かもしれない。



また別の考察を引き合いに出してみる。
本作のテーマを、「キリスト教における慈愛」ととる向きもあるようだ。

例えば冒頭シーンがクリスマスイブなのはキリストの誕生を意味している。娘のアダの死亡と、半獣人としての復活(厳密には別の生命だが)はキリストの復活を、獣人はキリスト対となる悪魔をを表しているという考察だ。

というのも羊には、「キリスト教の発展と共に駆逐された異教神のイメージがある」からだ。
また古代ローマでは、羊は欲望と性的快楽の象徴としてみなされていた歴史がある。

キリスト教には、多くの教えがあるが、共通していることは"慈愛"だと考えられるのだ。

その羊の顔をした半獣人である、アダを自分たちの娘として受け入れる行為が、かつて娘を喪失した夫婦にとっての慈愛の象徴であるとも取れるのだ。だが、ここには人間の強烈なエゴが存在する。

本来であれば、アダは産みの親である親羊に育てられるべきである。
しかしアダが羊人間であったことから、人間であるマリアが自分の子供して育てようと決意し、親羊からアダを奪い去ってしまう。そのため親羊は、子供であるアダを取り返そうとしているのだが、しかしマリアがそれを許さず、親羊は銃殺されてしまう。

先述した通り、マリアは実の娘を亡くしている。
その悲しみを埋めるために、羊人間であるアダを自分の子供として育てようとする。つまり自分の身勝手さのために、親羊から子供を取り上げたということになる。
これは、無意識の内に"人間は動物より上位である"という意志の現れに他ならない。
家畜である羊の運命は従属にあり、その生殺与奪の権は人間が決める、ということでもあるのだ。

そのような傲慢な考えが親羊を射殺する結果になるのだが、最終的には天罰が下り、報復を受け、マリアは絶望のどん底に落とされることになるわけだ。

先述したように、夜、マリアが悪夢に苦しめられるシーンがある。"羊の群れが光る目でマリアを見つめている"というものだが、これはマリアが"親羊から子供を取り上げてしまった"という罪悪感を表しているのかもしれない。
そのため、羊たちが報復として子供を取り返しに来るかもしれないと無意識下で考えているのだ。

だからこそマリアは、親羊を銃で殺してしまったわけだ。

本作は、マリアの夫イングヴァルの弟ペートゥルが訪ねてきた時にターニングポイントを迎える。
これは、"マリアとペートゥルは、過去に不倫をしていた"という考えを想起させもする。彼らの親密さと、ペートゥルのマリアへの態度からもそうしたものが伺いしれる。
マリアは娘アダを亡くしてしまった悲しみを埋めるため、夫イングヴァルではなくペートゥルに癒しを求めたのかもしれない。ペートゥルは、羊人間のアダを殺そうとしたり、金銭的トラブルを抱えていたりとロクな人間ではない事が描かれる。

また、マリアが親羊を殺した場面に遭遇しており、「イングヴァルとアダは、親羊を殺したことを知っているのか?」とマリアを脅し、再び身体の関係を持とうとするゲス野郎だ。

ちなみにペートゥルがアダを殺そうとした理由は.偽りの幸せを見ていられなかったからだろう
ペートゥルは、兄夫婦が娘アダを亡くし、悲しみのどん底にいたことを知っている数少ない人物だ。
そして同時に彼らが悲しみを乗り越え、たくましく生きていることも知っている。

兄夫婦は、アダを実の娘のように育てているが、人間ではない、羊であることには変わりはなく、ペートゥルの目からすれば「羊と家族ごっこのママゴトをしている」、「偽りの幸せを演じている」、と感じてしまうのだ。このままでは兄夫婦のために良くないことが起きる、そう考えたペートゥルは2人に内緒でアダを殺そうとする。
だが、彼はアダを殺さなかった。それは何故か。

その理由はアダが可愛かったから。
一見すると、そんな理由はあるだろうかと思うだろうが、私たち人間も含めて動物の赤ん坊は無邪気で可愛い存在だ。そして可愛いのにはちゃんと理由があって、"親に育ててもらうため"である。
これは人間を含めた哺乳類生物の特徴でもあって、実際にそういう研究がなされてもいる、種の保存の生物学的な理論だ。

つまり赤ん坊のもつ可愛らしさは、生きていくためには必須ということなのだ。

これによってペートゥルは、赤ん坊特有の可愛らしさを持つアダを殺すことは出来ず、殺すのではなく、育てていくという選択をとることになる。


マリアとイングヴァルの娘、アダが亡くなった明確な理由は描かれていないが、おそらく川で溺れ死んでしまったのだと考えられる。
というのも、アダが行方不明になったとき、イングヴァルは真っ先に「川を探してくる」と言っているのだ。またイングヴァルは、「娘アダを探して湿地帯・沼地を走り回っている」という夢を見てもいる。以上のことからそういう死因があるのではないかとの推察も出来る。

ラストのマリアの表情。
どのような解釈を用いても、やはりこのシーンにおける意味性を見出すことが、本作の最も肝要なところである。
先述した通り、マリアは親羊を自らのエゴて殺害するという罪を犯している。そのような行いの果てに巡ってきたのが、愛する者を奪われるという獣人にとっての復讐であり、その連鎖としてマリアの喪失があるわけだ。
だが、マリアがこの循環に気付いたとき、彼女のなかではある種の摂理が働いたのかもしれない。
そこで顕になるのが、先に述べた慈愛の精神だ。
復讐ではなく、許しを施すことによって、憎しみの禍根は絶たれる。本作はそういった自然と共生する人々にとっての教訓譚、つまり人間のエゴに対する自然の戒めみたいな話だと捉えた作品でもあるのかもしれない。


またこの物語は仮初の親子関係、仮初の幸福を演じるという側面もあるだろう。
たとえ半獣の羊人間だったとしても、自らが産んだ子ではなかったとしても、愛情を捧げられる対象であれば良かった。それだけ実の子を失った彼ら喪失感と悲しみは埋めがたいのだ。
マリアとイングヴァルは無意識下でその事に気付いていたのかもしれない。それは果たして正気といえるのか、はたまた狂気のそれなのか。
ラストのマリアの顔は、極めて暴力的な、一方的な形とはいえ、その異常な状態から解放された安堵の表情にも見えるのだ。


このように多様な解釈を促す作りとなっている。


再びヨハンソン監督の言葉を引用すると、

「アダのキャラクターは脚本を書きながら生まれたもので、アイスランドの文化にアダのような前例はありません。われわれはファンタジーとして、幽霊、トロール(妖精)、あるいは水の中に住む馬などが身近です。動物と人間のミックスは、単に私が魅了された造形と言っていいでしょう。ただアイスランドには、大自然に対する独特の敬意があると思います。基本的に残酷なまでに厳しい自然に対し、ひとつの人格のように畏怖を抱いており、われわれ人間は逆らえません。そこから民話や寓話が生まれやすいのかもしれません。」


この映画、製作総指揮にタル・ベーラ監督の名前がクレジットされているが、ヨハンソン監督はタル・ベーラ監督が設立したサラエボの映画学校の生徒ということで映画の資金集めの際に名前を貸して貰ったらしい。
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