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パワー・オブ・ザ・ドッグのAnima48のレビュー・感想・評価

パワー・オブ・ザ・ドッグ(2021年製作の映画)
4.2
カウボーイの料理って、お爺さんがつくる豆料理で焚火の脇で煮だしたコーヒーを飲むイメージがある。でもって酒場でバーボンをグイってあおる。僕も外でチリコンカン作って食べるけれど、幸せになれるんだ。でもこの映画では、綺麗な宿屋でオーダーしたフライドチキンを食べ、メイドさんもご飯を作ってくれる。でもってパラソルが付いたカクテルが出てくる。開拓も終わった時代なのかな。

人生の中で誰かを見込むってことは意外とよくある。入社の際に面接官は応募者の可能性を見込み、婚約の際には善き伴侶として恋人を見込む。時にそれが外れることがあるけれど。

フィルは、名門大学で文学を学びながらもカウボーイとして生きてきた男、ブロンコの生き様をなぞることで、彼の不在を埋め合わせるようだった。弟へ辛く当たるが、かなり執着をしており、寝室からのけ者にされると涙を流し、弟夫婦の寝室の物音を聞いてブロンコの鞍をなでる。弟さんからしても厄介なお兄さんだと思う。

1920年代という時期はいつもの西部劇よりかなり遅い時代で、自動車も走り、カウボーイ以外の市民特に女性も西部にかなりで進出してきた西部開拓が終わった後の時代。ブロンコからカウボーイの暮らしを学んだのは大体開拓がほぼ終わった1890年くらいかな?この映画の頃になると思うガンファイトなんてもってのほか、戸外で稼ぐ男たちの天国は過ぎ去り、屋内の専門職などの地位も上がってきてる、嫌味を言いがちなフィルの敵意はそんな時代にも向けられてきたような気もする。

自然の様子、牛の群れが美しい。そんな広大な景色の中で、一軒建つ頑強なフィルの屋舗が、世の中に知れてはならない自分の心を過剰防衛する要塞のように見えて、そこから戸外を眺めるシーンが多かったような気がした。その屋敷のなかでも弟を自分の寝室の中で寝かせるフィルの執着。そこに入ってきた女性ローズは、彼にとって単なる弟の妻以上に厄介な存在だったと思う。

ブロンコへのフィルの想いは、当時は最大のタブー、ブロンコのハンカチにくるまれ、ズボンの中に入れるなどブロンコに同化したいようにも見え、純粋だった。フィルはピーターに自分の内面の秘密を見られたことで、距離を詰めていく。敵ともいえるフィルの屋舗の中で生活するローズは、大切な息子以上の存在にも思えるピーターがフィルにからめとられていくような様子をみて酒に溺れていく。

山に映る影をピーターは言い当て、当初からそう思っていたと話す。フィルはそんなピーターを自分の想いを受け止める相手と見込む。ピーターが来てから弟の出番はまったく無くなってるのは気のせいかな?彼はカウボーイの中で白く細く大学生でひょっとしたら、フィルはブロンコと出会った当初の過去の自分と重ね合わせていたかもしれない。そしてブロンコの役割を自分で演じようとする、まるでブロンコになろうかとするように。ブロンコを崇拝し愛していた彼は、ブロンコと自分を一体化させて、ブロンコの様に誰かを愛したかったようにも思えた。そしてローズからフィルを引き離して、彼の考えるいっぱしの男に育てようとする。ロープがまるで、フィルが贈る婚約指輪の様に見える。ロープを編む夜、彼のそれ以上の想いも受け止められたように思えた。最高の夜だったと思う。でもこれはフィルから見た見方。

ピーターは“父が亡くなって母を守ろうと思った。自分以外に誰が守る?”と口にし、母ローズとの距離は近く、まるで恋人のような場面もある。母親のために造花を作ることとウサギをためらいなく解剖する2面性がある。それは”強さ”にも”冷たさ”にもなる。この家に来た時から吠える犬が見えていたということから、フィルを母親と自分に対する脅威と見ていたような気がする。そういえば、初対面でフィルは汚れた指でピーターの可憐な花を乱暴に弄び、壊していた。同じ時間を過ごしていても、世界は違ったのかもしれない。

観ている途中は、どの方向、どのジャンルに連れていかれるか分からない映画。誰が主人公かわからない。誰の立場で見るかで意味合いも違ってしまう。主要な人物だれもが、誰かに執着し、守られ、敵であり、共犯だったように見える。一回目見るよりも2回目の方が味わい深い映画のような気がした。
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