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天皇の料理番
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『天皇の料理番』のエピソード情報

カツレツと二百三高地

夜汽車とコック帽

じゃがいもと別離

スープと紙風船

オムレツと堪忍袋

アイスフライと誘惑

爆弾とスペシャル・ディナー

おかゆとジゴマ

熱い涙と大福餅

フランスパンと娼婦

恋とゲテモノ料理

水飴とかけがえのない女

すっぽんスープと短刀

紅マスと砲弾

おでんと帰らざる時

シャンパンと関東大震災

ザリガニと天皇の料理番

蛙のフライと見果てぬ夢

カツレツとパリ祭

『天皇の料理番』に投稿された感想・評価

杉森久英 原作


明治の末期
福井県の寺に修行に出された篤蔵(堺正章)は少年期から修行や勉強もしない不良な日々を過ごしていた

ある日、香ばしい匂いが篤蔵の鼻をよぎる
軍隊の宿舎の厨房で作られたカツレツの匂いであった
今まで西洋料理を食べたことがなかった篤蔵は軍隊の田辺から食べさせてもらったカツレツの味に感動し西洋料理の料理人になるために親の反対を押し切って上京する🔪

東京に着いた篤蔵は見習い仲間の新太郎(鹿賀丈史)や辰吉(明石家さんま)らと共に料理を学び様々な苦労を味わった後に最高位の料理人に上り詰め「天皇の料理番」に就任する🍴😋






以下ネタバレ


天皇の料理番になるまでのサクセス・ストーリー
母親が夢中になって見ていた印象

父親はお笑い芸人は笑かしているのではなく笑われていると信じている人で漫才を見ていると頭悪くなるとよく云われたもんです

このドラマでも
シェフを呼んでくれといわれ料理人堺先生が客の前へ
「君はなんて料理を作るんだ!」
一瞬口に合わずに叱られてるのかと思いきや。。
「僕は美味しい料理は食べたら駄目だと医者にいわれている、君の料理は最高だ!」と賛美された
その時に父親が「なんて洒落ている言い回しだ、外国人はウィットに富んでいる」とえらい感心しだした
小学生ながら「そんなにうまいか?」と心の中で思いこいつホンマにお笑いセンス無いなぁと思った記憶😅笑


さんまさんに取っては関東進出の足掛かりだった作品
かなり堺先生には鍛えられたそうな。。😅笑

ドラマは素敵な作品でした☺
cara
4.0
0
当たり前だけど昔のドラマの方が昔との距離(時間)が近くて昔の社会風俗の解像度が高いことが面白いなと痛感。
現在の人の描く明治より明治時代が生き生きしている。
3.6
0
2026年6月9日 5:05~ TOKYO MX 1話~3話
1980年TBS。大正期から昭和期にかけて宮内庁(当時は宮内省)で主厨長を勤めた、秋山徳蔵の一代記、歴史大河ドラマである。主厨長といえば料理長のことであり、料理の技能においては卓越したものがあるには違いないのだが、なぜ、この男のドラマなのだろうか、という疑問がまず湧き上がる。ドラマが放映されたのは、1980年。原作が出版されたのは1979年。新聞紙上に載ったのが1978年から1979年である。この短時日でのドラマ化という流れを考えれば、原作からして大きな評判を呼んだことは想像に難くない。たとえば、料理をテーマとして、一世を風靡した美味しんぼである。美味しんぼのマンガ誌への連載は、1983年からであるが、こんなに早く大人気になったわけではない。おそらく、当時の人々の関心を引き付けたのは、料理ではなく、「天皇」という部分なのでは、と思える。
「もはや戦後ではない」という言葉は、1956年の経済白書の一文であるが、この時代を象徴する言葉として、知られている。このときから、日本は、高度成長期に入り、1970年代後半に安定成長期にたどり着いた。インフラは急速に整備され、世の人々は、社会の豊かさを実感したことだろう。ちょうどそんなときである。アニメ「宇宙戦艦ヤマト」が放映されたのは。1974年放映開始なのだが、そのときは、さほど反響はなかったのだが、再放送されると、大反響となった。だが、子ども心に、じつは、いいのかな、という逡巡はあったのだ。どういうことかというと、その当時でも、戦中戦前の日本軍のイメージするものは、忌避されていたのだ。戦艦ヤマト、戦艦大和、というのは、いいのかな、という逡巡だ。それでも、世の大きな流れに押し流されるようにして、そんな気持ちはなくなったしまったのだけど。(ストーリー自体、戦中戦前の日本軍とは関係のない、純粋なスペースファンタジーであったということもあると思う)
子どもらのあいだで「宇宙戦艦ヤマト」がブームになっていたとき、大人のあいだでは、「天皇の料理番」ということか。当時の天皇は、戦後の昭和天皇であり、平和国家日本の象徴ではある。だが、「天皇の料理番」の「天皇」は、戦中戦前の天皇、つまり、陸海軍の最高指揮権を持つ天皇なわけである。忌避されてきた戦中戦前の日本軍と密接にかかわっていたはずなのである。それがいったいなぜなのだろうか。
1955年ごろから1970年代半ばにかけて、日本は高度成長期であり、その後、安定成長期、坂の上にたどり着いた、とは、前、書いた。当時も現在もだれも言わないのであるが、もし、「もはや戦後ではない」という言葉になぞらえるなら、安定成長期は、「もはや敗戦国ではない」、ではないだろうか。その言葉を象徴するような出来事がある。中曽根康弘首相の、戦後初めての、いや、いまのところ戦後唯一の、「内閣総理大臣」の資格での靖国神社への参拝である(1985年8月15日)。当時の世の中が、「天皇」ということばに以前とは違った距離感を感じたのは、そうした背景があるのでは、と思える。とはいえ、ドラマというフィクションは、坂の上に立ったという有頂天を不用意にそのまま反映するほど単純ではあるまい。

主人公、秋山篤蔵のプロフィールについて。実在の人物、秋山徳蔵をモデルにしてある、とは前に書いた。原作の段階か、ドラマの段階かは不明だが、脚色はしてある。そのことを踏まえつつ、プロフィールについて書く。
冒頭は、日露戦争(1904年2月~1905年9月)を控えた日本軍のシーン、そして、第一回早慶戦(1903年11月21日)のシーンである。一方、秋山篤蔵は、日ごろの言動を心配した両親により、僧侶にするために近くの寺院に押し込められるところであった。秋山篤蔵、15歳のときである。
数日後、住職に連れられ、鯖江歩兵第36連隊の兵営を訪問する。場所は、現在の福井県鯖江市三六町。ちなみに、秋山徳蔵の実家は、そこから南側、約7.7km、越前市村国三丁目にある。そのとき、たまたま、田辺伍長が炊事当番のときであるが、秋山徳蔵は、カツレツを食べる機会があった。そのカツレツのあまりの美味しさが、西洋料理の料理人を目指す契機となったのである。
ちなみに、田辺伍長は、そのあと、倉橋八千代と駆け落ちのようにして、兵営を脱走している。さらに、鯖江歩兵第36連隊は、その後、日露戦争に参加、旅順攻囲戦の激戦地、203高地で、相当の死傷者を出している。
一方、秋山徳蔵であるが、1903年から1904年にかけての冬、トシ子と見合い結婚している。その後、親せきの傘屋を手伝うようになった。
しばらくして、例の兵営を脱走した田辺伍長が、潜伏先の大阪で警察に見つかり、自殺したという報に接した。そのことが直接の原因かどうかはわからないが、西洋料理の料理人になることを決意、単身で上京した。
秋山徳蔵が、新橋駅の改札を出たところで、日露戦争の戦勝歓迎パレード、提灯行列に遭遇しているので、1905年10月22日のことと推測できる。
秋山徳蔵は、その足で、東京に出ていた兄、秋山周一郎の住んでいる下宿屋の部屋に転がり込み、身を寄せている。さらに、秋山周一郎の伝手で、華族会館の料理人見習いとして働くことになるのであった。

プロフィールの冒頭で、秋山篤蔵は、反抗的な態度のおかげで寺院に入れられた、とある。なぜ、こんなにも反抗的になったのだろうか。考えられるのは、一人明治維新状態ということだ。明治維新の動乱期から坂の上に達し、社会は、動乱よりも安定を求めるようになった。秋山篤蔵は、立身出世、上昇志向を求めていたとすれば、周囲との軋轢は大きかった、ということだ。秋山篤蔵が、その突破口を見出したのが、鯖江歩兵第36連隊の兵営で出会ったカツレツの美味しさなのである(ドラマでは描かれていないが、実家は仕出し屋であったらしい)。では、なぜ、カツレツなのだろうか。
まず一つは、カツレツが西洋料理だということだ。ただ、西洋料理は、たとえば、3話で、秋山篤蔵は、吉原に行くのだが、遊女に、西洋料理の調理人だと言うと、気味が悪いという理由で、遊女から接客を拒否されるのだ。西洋料理の世間からの認知度は、この程度だったようだ。ただ、軍隊のなかは違ったのだ。カツレツは、将校(少尉以上)クラスだが、一般的には、ライスカレー、シチュー、コロッケ、等、西洋料理が取り入れられていた。秋山篤蔵は、美味しさに感動しただけではなく、一般社会にも、いずれ、西洋料理が普及するだろうと確信したはずだ。
しかも、話しはまだ続く。秋山篤蔵にカツレツを食べさせてくれたのが、田辺伍長だったわけだが、田辺伍長は、その直後、倉橋八千代を連れて、兵営を脱走してしまう。その際、秋山篤蔵は、個人的に、田辺伍長と会い(匿ったわけだが)、カツレツのレシピを教わっているのだ。ただ、これだけでは、西洋料理人への道は開かれなかった。
西洋料理人への道の大きなきっかけになったのは、田辺伍長が潜伏先で警官に見つかり、自殺した、という知らせではないかと思う。たしかに、軍隊のなかでは、西洋料理は、一般化されてはいた。だが、結局のところ、最終的に、軍隊と美味しさとは、相いれない関係なのである。軍隊のなかで、田辺伍長は、秋山篤蔵に、カツレツをごちそうしてくれたが、それは、田辺伍長が、軍人だったからではない。単純に、優しかったということなのだ。その田辺伍長は、日露戦争の戦場に赴くであろう鯖江歩兵第36連隊から、その優しさゆえに、脱走し、最後は自殺している。それを知ったとき、秋山篤蔵は、悟ったのだと思う。田辺伍長の優しさと倉橋八千代への思いこそが、美味しさと直結するものであり、軍隊は、美味しさとは相いれないものだ、ということを。だが、社会における、軍隊の存在は、日増しに大きくなっていくことが実感されるわけだ。もし、いまを逃せば、将来、西洋料理人への道は、完全に閉ざされてしまうかもしれない。そうなれば、秋山篤蔵の上昇志向の道も絶たれるわけだ。その思いが、いま、ここで、妻を置いてでも、東京へ行って、西洋料理人への修業をしなければならない、という決断を産んだと思う。

ということで、秋山篤蔵は、華族会館の料理人見習いとして働くことになる。ちなみに、華族会館とは、華族が、社会へ参画する際、便宜を図るための法人組織である。いちおう建物の名称ではないものの、1890年(明治23年)、鹿鳴館を借り受け、1894年(明治27年)には、敷地も併せて買い取り、建物の名称も、華族会館となったようだ。
華族会館で供される食事を調理していたわけだが、西洋料理が主だったのでは、とは思う。当時、和食や中華料理という考え方があったのかどうかは、微妙なところだ。一般社会で、西洋料理がほとんど普及していなかったことを考えると、やはり、厨房では、西洋料理を専門に調理していたと思える。ただ、その厨房内では、鉄拳制裁が飛び交う、殺伐とした職場環境であったらしい。さらに、秋山篤蔵は、料理人見習いという立場から、妻、トシ子とは、一時的に離縁せざるを得なかった。これでは、いったんは近づいたかに思えた田辺伍長のカツレツへの道は、停滞し、むしろ、後退していきそうだった。だが、実は、ここからなのだ。逆に、秋山篤蔵の肝は座り、西洋料理人の頂点への階梯を猛然と駆け上がり始めるのは。

そして、秋山篤蔵は、西洋料理人の頂点へ上りたどり着いた。それが、宮内庁(当時は宮内省)で主厨長、天皇の料理番なのである。そこに、田辺伍長のカツレツはあったのだろうか。皮肉なことに、戦中戦前の当時、天皇は、陸海軍の最高指揮権を持っていたわけだが。

冒頭、日本は、1970年代後半に安定成長期にたどり着いた。そして、人々は、社会の豊かさを実感した、と書いた。さらに、そのことで、ひょっとしたら、「敗戦国」であることも忘れ、世の中は、「天皇」ということばに以前とは違う距離感を感じたのでは、とも書いた。ここで、このドラマは、あらためて、世の人々に、天皇の料理番にたどり着いた秋山篤蔵が、そこで、はたして、田辺伍長のカツレツに出会えたのか問いかけるのである。

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