映画大好きそーやさん

GOの映画大好きそーやさんのネタバレレビュー・内容・結末

GO(2001年製作の映画)
3.8

このレビューはネタバレを含みます

〈2023/12/20加筆修正〉
国籍、環境、名前、そのどれよりも大切な人間の本質。
初めに申し上げておきますが、本作は一本の映画としてよくできた作品だったと思います。
まず、原作とは異なる始まり方となっているOPシークエンスから観客を作品の世界へと引き込んでくれます。
たわけ先輩関連の電車とのチキンレース、主人公である杉原のバスケ部での騒動と続く一連のシークエンスは、ジャンプカットを多用したテンポのよい編集がエネルギッシュな作風と共鳴して物凄い吸引力を生んでいました。
全編を通してのコメディタッチはまさに宮藤官九郎印と言え、本作の根底に流れるテーマ性周りの要素の立ち寄り難さを考えると、問題提起をなす入門的な作品として申し分のないものだったのではないでしょうか。
「めっちゃウンコしたい」を日本語で言ってしまったことの是非に対して、延々と押し問答を続ける場面で、私は腹を抱えて笑ってしまいました。そういった、言ってしまえば下らないコメディシークエンスは幾つもあって、その間口の広さはかなりのものになっていたと思います。
語り出しにも明記した通り、本作のテーマにあるのは人間の本質が何であるのかということなのだろうと、私は考えました。
その意図を伝えるためのモチーフとしてもち上がってきたのが、《在日》、《朝鮮人》、《韓国人》を始めとした国籍の問題だったのです。
この辺りは私も造詣が深くなく、語れる立場でもないですし、間違ったことを言ってしまうかもしれません。
以降の内容は映画を観て感じ、考えたことを書き連ねたものですので、ご容赦下さい。
日本は人種でみると珍しく、《日本人》で完結した国として成り立っています。アメリカ等では移民や先住民、様々な国の人々が集まって一つの国を形成しています。
ユートピア然とした日本において、全ての外国人がわかり得ない存在、理解できない存在に見えてきてしまう《日本人》がいるのは、その国の性質ゆえ仕方のないことと言えるかもしれません。
そんなことを象徴するように、作中に配置された桜井とその家族、父を代表とする、根源的な他国籍への恐怖が、《在日》である杉原にぶつけられるシークエンスがあります。
桜井の父は恐怖を抱いている訳ではないと言われるかもしれませんが、私的には《日本人》の自分たちの国へのポリシーのなさに憤りを感じていることが翻って危機感、嘆きを呼んでいて窮極恐怖につながっているように思えました。
父の影響を強く受けた桜井が杉原との行為を拒んだことが、何よりの根拠となるでしょう。
二人には、国籍の壁がありました。そんな固定観念、一般的価値観を破壊していく存在こそ、他の誰でもない杉原なのです。
モチーフとしてボクシングを取り上げて、自分の腕を伸ばした範囲が自分の円、大きさであり、その円を突き破って外から何かを奪ってくる行為のことをボクシングというと、杉原の父、秀吉が杉原に教えます。
仲を深め、行為に及ばんとした、その時に杉原が《在日》であることを告白して、桜井は杉原を拒絶する。そこまでの流れは前述した通りですが、その中にはある文脈の異なる一節も含まれていました。
それが、「杉原がわたしの体の中に入ってくることを考えたら、なんだか恐いの……」といった内容です。
これはこの映画の一番大事なものを端的に表している台詞であり、結局人というのは他者を恐がる心を捨てられません。
それは国籍、環境、名前と、それぞれ個人を特定する飾りにはなっていますが、本質的なものではなく、言葉でしかないのです。
そんなことよりもその人であること、それを本人であったり、その本人と関わる人であったりがどう受け止めていくのかが大事なのだと、ロックかつコミカルに、実直に描き出した作品として、この『GO』は読み解けるのではないかと考えました。
本作のラストシークエンスは若干ご都合的にみえなくもないですが、そんなラストを夢想することは原作者や制作陣の願いのようにも捉えられて、国籍や環境が絡んだこともそこに大きな意味が出てくるのだろうと、ラストシークエンスを観たことで腑に落ちた私がいました。
一点不満を言うならば、ジャンプカットを使い過ぎていることは少々ノイズを覚える部分ではありました。でも、指摘したくなる点はその程度しかなかったように記憶しています。
総じて、デリケートな話題を扱いながら、そこに大きな意味を孕ませて、人間の本質を描いていくという、凄まじい強度をもった作品でした!