こうん

怪物のこうんのネタバレレビュー・内容・結末

怪物(2023年製作の映画)
4.2

このレビューはネタバレを含みます

観終わってながながと放尿しながら、「そうまいだーれだ」なんて頭の中でハミングしましたね。わたしは相米っ子なので、相米慎二の映画的記憶を見出しては無条件に喜んでしまいます。
本作に関しては「台風クラブ」や「お引越し」や「夏の庭」をモーレツに想起させてくれて、それも込みで後半の少年パートが特に良かったすね。
なんならちょっと泣きそうになったくらいで、サクラ瑛太パート邪魔くせーなと思っているところです。

ね、シンプルに「面白かったです!」ですませたいところだけど、いろいろ言いたくなるのが是枝映画でありますので、これからあれやこれやと書いていきます。

現状、第一線の映画監督である是枝さんが日本で映画を作るにあたって求められるのが「賞を獲れ!」「観客を集めろ!」というなかなかしんどい感じの立ち位置になってるのではないかなという気がしていて、主に商業的な要請との戦い・刷り合わせが大変そう、と勝手に想像しては同情しています。はた迷惑ですね。
それが如実なのは本作の公開タイミングがコンペ出品したカンヌの結果が出た後、ということで、受賞が最大の宣伝、というプレッシャーがすげえなと思いました。
それでちゃんと賞をもらってくるのがまたすごいと思いますけど、その受賞がある種のネタバレにもなっていて、本作の場合その“ネタバレ”という扱いが適当なのか?という議論があってネタバレ箝口令もあったらしい事前の試写で声をあげる評論家もいたりして、しかも“ネタバレ”としてエンターテイン要素扱いで補強するような映画構成にもなっている側面が否めないことになおさらに「どうなの?」という見方もあって、めっちゃ悩ましいと思います。

つまりは未成年の性自認の葛藤を“ネタバレ”とすることですね。
繊細な個人のアイデンティティを、ミスリードも込みでサスペンスやミステリー的な構成の中心に置くことが適切なのかどうか。そしてそのサスペンスやミステリー要素をより強めることになってしまう“羅生門形式”の構成がそのアイデンティティをよりマイノリティに追いやってはいまいか、という懸念があると思います。

そのへんの問題はぐるぐる考えて煮詰まらないのでここで止めておきますが、決して是枝監督や脚本の坂元さんが未成年の性自認というモチーフやキャラクターを「こんな感じでしょ」と軽んじたわけではないことは映画を観れば明らかではあるので、現状の最適解をそれぞれの作り手や受け手(つまりは全員)が考えていかねばならない、と思いましたかね。

ただその問題意識とは別に、“羅生門形式”で語ることの危うさみたいなのは感じて、「怒り」の時にも思ったけども、人間という存在の不確かさを様々な視点で炙り出す視座を映画に持たせるいう意図なんでしょうがしかし、その“羅生門形式”に凝って多層的にすればするほど作為を感じてしまう、というのが個人的にはあります。パズル遊びに陥る危険といいますか。水筒の泥の疑惑→正解の設問なんかいる?と思いますし。

本作だとわかりやすいのは音の使い方ですよね。1回目2回目3回目、どんどんそれぞれの音に焦点があっていって意味が明らかになる、ということですけど、1回目の時点で「あーこれなんかの意味あるんだろうな」とか思っちゃうわけですよこちとら擦れてますから。それが逆にノイズになるというか、音だけに限らず意味深なショットや寸足らずのカットや明らかに落とされている断片だとか、観ていていちいち予断を要求される感じがして…
だから冒頭にも書いたとおり、サクラ瑛太パート邪魔くせーな、と思った次第です。

ジャンル的な面白さは減じるだろうけど、誠実に一本線の時間軸で描けばいいんじゃないのかしら、と思いましたよ、“たった一人の孤独な人の為”ならばなおさら。あ、ちょっと毒出た。
そうしなかったのはやはり“羅生門形式”が面白い、という映画の商業的な側面にも目を向けたからなんだろう、と思いました。“羅生門形式”は実際には「羅生門」より前、90年くらいに生まれた手垢のついた技巧だし、特にここ最近は時代の趨勢もあってさまざまな映画で多用されている気がするので、ちょっと食傷気味で、今やその構成自体が無駄な予断を生むことになっている気がします。

というか本作ではカンヌでクィアパルム賞を取ってしまったことで、その“羅生門形式”が半分くらい形骸化してしまっている、という事態にもなっているので、ちょっと上記の文句は半分言いがかりになっているかもしれません。

最初から知ってしまったからこそ、映画の観方も映画の構造も歪になってしまっているのかなと思いますね、しかたない(←結論)。

とはいえ、やっぱり、それはそれで面白かったですよね。
サクラパートの田中裕子をはじめとした学校の対応はほとんどブラック・コメディだったり、瑛太パートの高畑充希のヤ―な感じは最高でしたし、モブ先生やモブガキたちのリアリティの素晴らしさ、あとウルトラマン紅白帽のマルコメ君がいたのが一服の清涼剤でしたね。それから中村獅童の役はちょっと削られているんじゃないかと思うけど、昼間に缶チューハイ(500ml)片手に現れていきなり水撒き始める獅童のクレイジーさは、歌舞伎界の中の彼の立ち位置とか今現在の歌舞伎界のことを考えると実に味わい深いですよね。
野呂さんもきっちり上諏訪の人に見えた。
(余談ですけど旅先の長野駅前の東急百貨店で後続のご婦人のためにドアを開けて待っていたら「あらー長野の方は親切なのねー」と感謝されたので、次回長野訪問のさいには県民待遇してほしいです)

思い返すと田中裕子の役どころが中途半端な気がするし、あのラッパの音色がなぜ瑛太を思いとどまらせたのがよくわかんないし、サクラさんは息子を理解しないまんまだし(瑛太に聞いたかもしんないけど)、多々消化不良のところはあるけど、相対的には面白かった、というか湊さんと依里さんの真の関係を手探りで見つけていく様にうたれちゃったのでオールOKです。
それがものすごいやさしい手つきで描かれていたし、近藤キャメラマンのフィルムルックの情緒ダダ洩れの画作りもたまりませんでしたね。
それから、おそらく3,4年生の設定の彼らの体幹の不安定さがよかったね。

無意識の加害性というのが本作のテーマのひとつでもあるけど、いっぽうで人を傷つけてしまうことを極端に恐れてしまう人々の葛藤を描いた「ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい」みたいな映画もあって、少なからずその繊細さを理解できるところで、半径5メートルの世界をよく見て慈しもうと誓うのでありました。
(その隙に国がおかしなことになっていますが)

そうそう、久しぶりに夜のTOHO新宿でしたけど、行くたびにあそこはなにか…コマ劇があったころの危うさとは別のヤバさがあって…ドキドキします(いわゆる席ガチャ的なことも含め)。
こうん

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