Kuuta

市子のKuutaのレビュー・感想・評価

市子(2023年製作の映画)
3.6
傑作になり損ねた良作…という印象でした。似ている「さがす」や「怪物」よりは好きです。完全なネタバレは避けていますが、展開にはある程度触れています。

▽映像はもう一つ
トンネルに始まり、鳥籠を模した金網越しのショット、見上げる/見下ろす対比(蝉を見つけ、中村ゆりを見下ろす)も地道に重ねられている。溢れ出る生命力としての水を、団地のじめっとした空気に馴染ませるアイデアも良い。

ただ、映像面の驚きは少なかった。特に手ブレ撮影の選択に疑問。夜の港で花火を上げる、市子(杉咲花)の魔女感が最も高まる瞬間、揺れる長回しにする必要があっただろうか?

後述する内容に重なるが、リアルな人間としての市子と、抽象存在としての市子の間で映像が引き裂かれている。両義的な人間を描きたい意図はよく分かるのだが、最良の映像化ではないのでは?と思わずにはいられなかった。日常に入り込む禍々しさという点では、終盤のあのベッド越しの切り返しはゾワっとした。間取りの使い方も見事。

▽食傷気味の前半
原作の演劇は、死後も誕生日にメッセージが送られる映画仲間を見て、その人がまだ生きていると感じた、という監督のエピソードが原点にあるそう。他人の目から見た空白としての市子。「過去がこうだったのだから、今はこうだろう」と、仮定法過去完了を習うシーンが劇中でも出てくる。

映画に翻案するのがそもそも難しかったのでは、と思う。演劇では、様々な人物の想像が混ざる抽象的な存在として市子を描けるが、映画では実在の役者を撮りながら、同時に非実在感を表現する必要がある。監督は「桐島部活辞めるってよ方式では二番煎じになるので、羅生門方式を使い、映像として存在しながら、存在していないような多面的な市子を描いた」という。

要は他人の印象の反射、として前半部の市子は描かれているが、「多面性」のために入れ替えられる時系列に必然性を感じなかった。

「社会的境遇が明らかになる」ことが話の推進剤になる物足りなさも、最初に挙げた2作同様に拭えず。時系列入れ替えで興味を持続させるよりも、市子を描いて欲しい。

▽市子の両義性
長谷川(若葉竜也)がトンネルの外へ出ていく後半から面白くなってくる。

市子は鳥籠から逃れようとする。前半の人はそれを追いかけないが、過去の呪いでもある北(森永悠希)と、過去を知らない長谷川は執拗に迫る。後半はこの2人が対比的に描かれる。

北は市子を象徴する水を貯め、彼女の夢に立ち塞がる一方、長谷川は水の流れを良くする配管工で、船に乗って母親に会いにいく。何も知らないから知ろうとする、愚直な姿勢が母親との会話につながり、市子と同様に「下を見下ろす」ことを知る。

市子の中に限定されてきたストーリーを観客=長谷川に解放するこの展開は、「社会的に見えない人」という今作の問題提起にそのまま重なる。ある場所に描かれた虹が、ラストで自然に解放され、海の向こうにかかる。

北、長谷川がそれぞれ市子に接近を試みる中で、彼女の両義性が垣間見えてくる。前半の受け身な姿、「被害者」としての市子と、能動的な加害性を持つ市子の可能性が同時に提示される。

そもそも市子が長谷川の元を去ったのは、長谷川を思っての行動か、ニュースを見て警察から逃げ出したのか。長谷川との日々を振り返る編集が前者の印象を強めているが、後者の可能性も全然あるのが怖いところ(ここは時系列入れ替えが良い意味でミステリー的に機能している)。

また、携帯を持っているのに、公衆電話からあのタイミングで電話してきたのはかなり気になった。足がつかないようにしつつ、身寄りのない女性に成り替わり、着いてくる北の口封じも出来ると読んだのではないか。

ということで、前半の市子像をひっくり返す要素が入るたびに痺れるものはあったのだが、解釈に開けたラスト含め、「市子自身を描かない」間接的な語り口には限界があると、最後まで感じてしまった。壁にかかった浴衣に黒沢清や小津のような幽霊みを見ていたのだが、浴衣のアップを持ってきたところで、そういうのが見たいんじゃない…と。分からない人を分からないまま、という誠実さは理解できるのだが、バーホーベンばりにストレートな女性の映画になった可能性があるだけに、勿体無い感じがした。
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