朱音

パンズ・ラビリンスの朱音のネタバレレビュー・内容・結末

パンズ・ラビリンス(2006年製作の映画)
4.4

このレビューはネタバレを含みます

本作、『パンズ・ラビリンス』の世界観は1891年のエドウィン・シドニー・ハートランド著『おとぎ話の科学 童話についての調査』から着想を得ているらしい。
分類されパターン化された童話のファクターを再構成することでこの物語は作られた。


本作は、内戦直後のスペインが舞台になっている。そのため、1936年~1939年に起こったスペイン内戦について理解を深めておくことで作品の理解度も変わってくる。

スペイン内戦は、第二共和政期のスペインで発生した。アサーニャ率いる左派の人民戦線政府と独裁者のフランコ率いる右派の反乱軍が争ったというもので、左派陣営にアーネスト・ヘミングウェイやアンドレ・マルロー、ジョージ・オーウェルが参戦していたことは有名なので知っている者も多いだろう。

『パンズ・ラビリンス』の世界では、右派がヴィダル大尉側に当たり、内戦が終結した後の反抗勢力がメルセデスを含むレジスタンス軍である。重要なのはヴィダル側の陣営がファシズムであるという点だ。フランコにはファシズム陣営のドイツ、イタリア、ポルトガルの後ろ盾があり、この内戦に勝利し、圧政が敷かれることとなった。
実際の内戦中においては、人民戦線軍をソビエト連邦やメキシコは支援したが、「ヨーロッパがスペインを助けにこない」という悪夢を、ギレルモ・デル・トロ監督は本作の世界に投影していると言われている。

1944年が舞台となっているこの作品では、内戦が終結したものの、いまだ戦いは続いているという状態で、そんな過酷な日々の中でオフェリアは、ファンタジーの世界に想いを馳せ、それをよすがに幼い生を懸命に生きている。


監督であるデル・トロは、アンデルセンやグリム兄弟、オスカー・ワイルドなどの世界観を取り上げながら、「魔法が現実世界に起こるのは、現実が残酷だからだ」と語っている。
そしてオフェリアが迷宮に迷い込むのは、過酷な現実に直面したからだと説明している。


作中に登場するペイルマン(ダグ・ジョーンズ演じているこの怪物は、2つ目の試練に出てくる妖怪で、子どもを食べてしまう。顔には目がなく、両手の手のひらに目玉が埋め込まれている)は、教会と子供たちの食欲がメタファーとなっている。掌にある目に気をとられてしまいがちだが、手にある穴は聖痕だと考えられる。
また、オフェリアが言いつけを守らなかったのは、オフェリアの中にある超自我が影響しているのではないかと考察されている。超自我はジークムント・フロイトの心的構造論に拠れば、社会の中で生きてゆくために必要な価値観のようなものであり、子供の頃からの躾や教育を受ける中で形成されていったもの、心の中にある快楽的欲求(イド)や自我を道徳的、または倫理的に抑えている部分だ。オフェリアが葡萄を食べたのは、この快楽的欲求が勝ってしまう人間性を表したものといえる。

パンは、オフェリアやカルメン、メルセデスなど、女性陣と対極にある存在で、カール・グスタフ・ユング的な男性性の原型でもあるとされているそうだ。そうした要素も本作のメッセージ性を読み解く上で重要だといえるだろう。
デル・トロ監督が『パンズ・ラビリンス』を書いた時、頭の中にはいくつかのインスピレーションがあったようだ。ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』、チャールズ・ディケンズの『デイヴィッド・コパフィールド』、そしてライマン・フランク・ボームが1900年に発表した児童文学小説『オズの魔法使い』がそれだ。
しかし、"パン"というキャラクターはギリシャ神話のパーンやピーター・パンを意味するものではないとのこと。
幼い頃、デル・トロ監督は祖母の家にある衣装箪笥の後ろから"パン"が現れるのを見たそうだ。これが、作中のパンのアイデアの源泉とのことである。デル・トロ監督は過去に2度、幽霊に遭遇したことがあり、またUFOを見た体験についても語っている。


本作は、歴史上の内戦を踏まえた物語内現実で起こった出来事と、ファンタジー要素とが混在しているため、現実世界の過酷さに耐えかねたオフェリアの病的な空想への逃避という解釈も出来てしまう。オフェリアが殺されてしまうラストもまた、少女の今際の際に見た泡沫の夢と捉えることも出来る。そのような見方をした場合、現実世界で適応できなかった悲劇的な物語になってしまうだろう。それだけに留まらず、ファンタジーならではの栄光や自然界に存在する精霊は、まるで霧のように消え去ってしまう。
しかしながら、『パンズ・ラビリンス』にはマンドラゴラなどのファンタジー世界の物が現実世界にも侵食していることが分かる。つまり、ファンタジー世界が現実世界よりも優位になっているといえるのだ。
ギレルモ・デル・トロ監督は先述した通りファンタジックな感受性をもっていることから、現実世界とファンタジー世界は併存していて、どちらかというとファンタジー世界に対する優越を感じていたようだ。
そのような思考が根底にあったからこそ、本作ではファンタジー世界で主人公のオフェリアが幸せな結末を迎えることが出来たのではないだろうか。


デル・トロ監督はこう語る。

「多くのファンタジー映画のようにリアリティの世界がやがてファンタジーのそれと交差するように作ることも出来たかもしれない。でも僕は、現実とファンタジーがむしろパラレルに存在し、ふたつの世界が鏡のように存在しあうように作りたかった。なぜなら僕にとってファンタジーは現実からの逃避ではないから。現実世界の方がある意味ファンタジーのようで、ファンタジーの方が現実世界よりも、より現実らしいからなんだ」


先程も少し触れたが、フロイトという精神科医は、我々、人間の心の中には無意識という領域があると提唱している。
無意識の中には欲求が押し込められていて、その欲求を恐れる気持ちとの間に生まれる葛藤を意識できない状態になると、精神的な部分に問題が生じると唱えている。また先にも触れた、分析心理学の創始者であるユングは、フロイトが提唱する無意識を個人的無意識と呼んでいて、それよりも深い部分には普遍的無意識が存在していると提唱している。

普遍的無意識というのは、本作、『パンズ・ラビリンス』にも出てくるおとぎ話のような世界観で、誰もが何となく知っていて、容易に想像できるものがしまわれている場所である。そしてそれは、肯定的な部分であり、物事を創造するための力を生み出す場所だとユングは考えた。
そのことを踏まえてみると、オフェリアが生み出した世界は普遍的無意識の中で生まれたものだといえるのではなかろうか。

現実ではない世界に依存してゆく過程。
オフェリアが生み出した幻想世界の中でメインとなっているのがパンというキャラクターだ。パンは、オフェリアの下僕でありながら、数々の試練を与える指導者(メンター)という役割も同時に担っている。
作中でパンの見た目は次第次第にと生々しいものへと変化してゆく。それは、オフェリアの幻想に対する依存度が高まっていることの表れだと考えられるだろう。現実世界での過酷さが増すにつれ、オフェリアの逃避への欲求が高まってゆくという見方も出来る。

現実世界では母カルメンの容態がどんどん悪くなっていき、オフェリアが置かれている立場は悪くなる一方だ。初めの頃、パンは迷宮に居たはずだ。
しかし、それが迷宮以外の場所にも表れるようになっていったのは、現実以外の世界への依存度がかなり高まった状態だったといえる。


また一方で、迷宮はオフェリアにとっての通過儀礼であるという見方もある。

「迷路は人を迷子にする場所だが、本質的には通過するべきものだ。つまり、それは避けられない一つの中心へと向かうの倫理的かつ道徳的な道中にすぎないんだ」

デル・トロ監督は本作を通じて、ひとりの少女の体験を、成長のプロセスと紐付けて結んでいる。
例えば大木に巣食う巨大ガエルがそうだ。
試練の中でオフェリアは、大木の下にいる巨大なカエルに出会う。そのカエルは、オフェリアが抱えている潜在的な恐怖を転化したものだと考えられている。
なぜならカエルは木の根元で虫を貪り、大木を枯らしているからだ。

大木を枯らしていることとオフェリアが抱えている恐怖にどのような共通点があるのかというと、カエルに出会う前に交わされたオフェリアとカルメンのやりとりに注目したい。オフェリアがカルメンに「なぜ再婚したのか」と問いかけたとき、「1人は寂しいから」と答える。それに対し、オフェリアは「いつも私が一緒にいるのに」という。

このやり取りから、母カルメンが本当に必要としているのは自分自身ではなく、亡くなった父親の代わりになる男性、つまりヴィダルなのだとオフェリアは痛感するのだ。ヴィダルとの間には子供を身篭っており、その子が産まれたあかつきには、2人の間で自分はより不要な存在として疎まれるということを感受性の強いオフェリアは直感的に理解している。このことからより自分自身が愛されなくなるという不安や恐怖を感じていたのだと考察出来る。


ヴィダル大尉について。
ファシズムが横行する反乱軍の中にあって、ヴィダル大尉は、作中とりわけ残忍な人物として描かれている。レジスタンスを躊躇なく殺し、自身に反抗する人間は誰であれ容赦なく拷問に掛け、殺害している。人を殺すことに対する罪悪感を覚えていないように思える描写も随所にあり、明確にサディストとして描かれている。
だが、彼にも心の中に闇がある。ヴィダルの父親も軍人であり、死ぬ前に時計を壊して"死の時刻"を息子に託した。それは、勇敢な死の手本にさせたいという思いがあったのだ。
そしてラストシーンでは、時計を触りながらレジスタンスに殺される。自分自身の死を察した時、「いつか息子に伝えてくれ。父が何時に死んだか。」と言い残していることから、父親の死を意識した状態で死ぬことでコンプレックスを克服したいと考えていたのではないかと考察出来るのだ。
だがその願いはレジスタンスによってすげなく一蹴される。
「いいえ、あなたの名前すら教えないわ。」
こうして父親から自分へ、自分から息子へと受け継がれてきた自己顕示欲の因果は絶たれ、「自分が何者で、どこから来たのかを忘れた王女さま」であるオフェーリアの弟は、父親(ファシスト)を知らない孤児となるのである。


この物語の行く末。
本作が、現実と空想の境界線が曖昧に作られていること、少女の成長のプロセスを踏んでいることは再三述べてきたが、それについてデル・トロ監督はこう語っている。

「この映画が描いているのは、自らが信じる世界へと自分を送り出す少女の物語なんだ。その世界ではもはや彼女の体の生死は意味を為さない」

また、本作におけるオフェリアの行動をこのように表現している。

「彼女は映画のなかで唯一いかなる暴力にも関わらないないことを選択した人物なんだ。何者の命を奪わないことをね。ここでは医者でさえ、命を奪う。しかし"わたしは自分の命をもっているから、他から奪ったりはしない"と決めた者は、生き残ることができるだ。超自然的な形でね。」

パンがオフェリアに告げた最後の試練は弟の純粋な血を差し出すことだった。これは「質問はするな、ただ従え」という盲従を敷くものであった。この指示にはファシズム的なるものと同義であることが見て取れる。
しかしオフェリアはそれを拒み、抵抗する。弟の血を流さないという選択をし、結果として儀式を成功に導く。最後の試練とは自らの意思で"非暴力"を選択することにあったのだ。つまりどういうことかというと、ファシズムへの子供からの正当な"異議申し立て"なのである。

子供にとっての通過儀礼を試練として描き、非暴力のもと、自分の信じる世界に生きるという選択をするという、生への覚悟があればこそ、オフェリアは死なないのだ。これはそういう物語ではないだろうか。
朱音

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