タケオ

ゾンビハーレムのタケオのレビュー・感想・評価

ゾンビハーレム(2009年製作の映画)
2.6
 正直、これほどまでに評価しずらい映画は久しぶりだ。どう言葉に落とし込むべきか未だに悩んでいる。やる気とアイデアに溢れた楽しい映画なのは間違いない。しかし本作の根底にある女性蔑視(ミソジニー)を、ギャグとして受け入れることがどうしても出来ない。何も考えなければゲラゲラと笑えて楽しい作品なのだろうが、その根底にある価値観にはやはり相容れないものがある。引き裂かれるようなこの感覚を、どう消化するべきか。
 もちろん、「女性に対する怒りや不満」を芸術として昇華しようとする姿勢を否定するつもりはない。『気狂いピエロ』(65年)、『アニー•ホール』(77年)、『(500)日のサマー』(09年)など、監督自身の異性に対するパーソナルな感情を形にした映画は数多く存在する。しかしいずれの作品も異性を一方的に批判することはせず、最終的には自己反省というテーマへと辿り着いていた。だが、本作にはそれがない。「女は全員最悪だ、俺たち男は戦うぜ‼︎」という、あまりにも短絡的かつ偏見に満ちた結論しか導き出すことができていない。『マッドマックス 怒りのデス•ロード』(15年)や『ハーレイ・クインの華麗なる覚醒 BIRDS OF PREY』(20年)など、本作とは対照的に「男根主義的な社会に対する女の怒り」を描いた作品も近年では数多く制作されている。しかしいずれの作品でも、彼女たちが牙を剥くには十分すぎるほどの現実や理由が作品内でしっかりと描かれていた。本作の主人公たちの幼稚な姿とはとてもじゃないが比較することができない。何故なら、離婚の傷心旅行として女性人口の多い町を目指し、セックスによって「男らしさ」を取り戻そうとする本作の主人公たちこそ、『マッドマックス〜』や『ハーレイ•クイン〜』の敵として描かれていた「男根主義的な思想」そのものを体現する存在だからだ。
 しかし本作がクレバーなのは、そんな物語に「ゾンビ」と「アメリカン•ニューシネマ」という2つの要素を加えることで、「男根主義的」な物語にツイストを加えている点である。ジョージ•A•ロメロ監督の『ゾンビ』(68〜)シリーズの根底に「共産主義」という新たな価値観の大同に対する恐怖心があったように、本作からは「女性の社会進出」や「女性解放運動」に対する男の「去勢恐怖」が垣間見える。また、そんな女ゾンビだらけになってしまった町で孤立していく主人公たちの姿には、己の生き様を変えることができず時代に取り残されていく『明日に向かって撃て』(69年)や『ワイルドバンチ』(69年)といったアメリカン•ニューシネマを彷彿とさせるものがある。「女性の社会進出」という新たな時代の流れに置いていかれながらも、それでもなお「男根主義的な思想」を捨てることができない哀れな男たち。「まさかこんな形でアメリカン•ニューシネマを現代で再現できるとは」と驚かされたのもまた確かである。
 しかしだからといって本作が、「男根主義的な思想」や「女性蔑視(ミソジニー)」といった問題に対して納得のいく結論を用意できているかというと、やはりその答えは「No」だ。本作には主人公たちの一方的な主張しかなく、「女性の社会進出」を「去勢恐怖」の対象としてしか描くことができていない。「共存」や「相互理解」といった、人間に本来備わっているはずの豊かな可能性を蔑ろにしてしまっている。そもそもの話だが、「ゾンビ」とは性別も人種も宗教も問わぬ「真に民主主義的なモンスター」であったはずだ。多種多様な解釈を持ち込むことのできる便利なモンスターであることは間違いないが、そこに「女性蔑視(ミソジニー)」という一方的な偏見としての意味だけを持たせるのは、やはり「ゾンビ愛好家」としてはどうしても納得できないものがある。扱っているテーマがテーマなだけに、制作陣には自らが描こうとしている問題ともっと真摯に向かい合おうとする姿勢が必要だったのではないだろうか。ゾンビ映画、舐めんなよ。
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