平野レミゼラブル

アマデウスの平野レミゼラブルのネタバレレビュー・内容・結末

アマデウス(1984年製作の映画)
5.0

このレビューはネタバレを含みます

凡才が天才に嫉妬し憎むも、同時に天才の天才性を愛してしまう…そんな天才(モーツァルト)殺しにして、最大の理解者であるサリエリの巨大感情を表現し切った大傑作。
この大変魅力的で倒錯的な愛憎は「モーツァルトとサリエリ」として表現する他ないくらいに完成されている。
近年FGOで本作由来のモーツァルトとサリエリが実装され、その関係性のエモさで村が焼かれるのも頷けるというものだ。原典の強度が強すぎる。

3時間という長尺だが、本作に関してはサリエリとモーツァルトの怪演、絢爛豪華な王宮や衣装の美、そして何より奏でられる素晴らしい音楽の数々で視覚・聴覚ともに飽きさせることがない。
冒頭とラストがサリエリの入っている精神病院という落差も、彼の凋落と狂気を表す対比になっていてインパクト抜群だ。

劇中でのモーツァルトは天才のパブリックイメージとして描かれる。すなわち音楽以外の私生活はだらしなく、他者への遠慮が一切なく、「ハハァーハッ!」と高笑いを上げる異端児。
だが作中で彼を天才として高く評価するのは、サリエリだけというのが本作の肝である。劇中でサリエリが発する「神は何故私に天才の曲を天才と認識できるだけの才を与えたのか…」という苦悩が彼の感情の全てであり、彼のモーツァルトへの愛である。
モーツァルトの妻が夫の曲を認めてもらうために、サリエリに枕営業を強いられるも興が冷めたサリエリに追い返される件など、モーツァルトとその曲に対するサリエリの屈折した愛が伺える。もうアレ、「ふーん、アンタの旦那の曲に対する価値って体で払えるくらいなの」ってマウント取ってるようにしか見えない……

延々と二人の関係について語っていけそうな勢いだから、一気に終盤の名シーンに話を移そう。すなわち「サリエリとモーツァルトの共作」。
紆余曲折の末、モーツァルトの紡ぐ音を詞に書き起こしていくサリエリ。早すぎて筆が追いつかない「天才」のイマジネーションにサリエリは驚愕しつつも楽しんでしまう。そう、彼はこの瞬間憎しんでいた「天才」と一緒に音楽を創ることが一番求めていたものだと気付いてしまう。しかし、時既に遅くモーツァルトは死に体。さらに「アンタは僕のことを嫌っていると思ったら誤解だったようだ。アンタは親切な人だ。ありがとう」という感謝の念という名のオーバーキルを与えて逝ってしまう。
あろうことかモーツァルトを葬るための「葬送曲(レクイエム)」がサリエリにとっての「呪い(レクイエム)」となる因果応報。この呪いは彼を蝕み「凡人の守護者」へと成り果てさせる。

ラストシーンはもうあまりの名言名句のパワーに圧倒されっぱなしだった。

「私は凡庸なる者の王だ!守護者だ!凡庸なる者たちよ、私はお前たちの罪を赦そう!!」

こんなにも格好良く、情けなく、共感で胸が打ち震えるセリフがあるだろうか。この名台詞だけで本作が名作たる由縁がわかる。

傑作!!!

ちなみに史実的にはサリエリのモーツァルト殺しは完全な冤罪である。そもそも二人は一時ライバル関係にはあったものの、関係自体は良好で、サリエリはモーツァルトの『魔笛』を大絶賛しているし、モーツァルトの遺児の音楽教育まで引き受けている。
しかし、当時からモーツァルト殺しの疑惑は掛けられており、「冤罪だ!」と訴えたにも関わらず、弟子に「あそこまで必死に無罪を主張するなんて、やっぱり師はモーツァルトを殺したのだ」と日記に記される始末であったという(どうしろっちゅーねん)。
本作の大ヒットによりサリエリの研究が進み、冤罪が完全に晴れ、彼の音楽も再評価されるに至ったのだが、世間的には「サリエリ=天才を殺した凡人」のイメージが完全に定着してしまったのは残酷な皮肉と言う他ない。なんだこの歪み現象…あとモーツァルトと比べたら誰だって凡人だっつーの!!
でも、自分が一番好きなサリエリってやっぱり本作の「凡人の守護者」たるサリエリなんだよな…
それだけあのラストシーンは魅力的だった……