平野レミゼラブル

セッションの平野レミゼラブルのネタバレレビュー・内容・結末

セッション(2014年製作の映画)
5.0

このレビューはネタバレを含みます

【聖域】
先日観た『映画大好きポンポさん』の敏腕映画プロデューサーポンポさんは幼少の経験から尺の長くない「90分の映画」に並々ならぬこだわりを持っており、それが映画としても重要なテーマになっておりました。そして、同作では登場人物全員に「好きな映画」が3本設定されており、ポンポさんのチョイスもやはり短尺限定『フランケンウィニー』と『デス・プルーフ』(『~in グラインドハウス』版だと113分なので、おそらく元の『グラインドハウス』で2本立て公開されていた時の尺がカットされたバージョンだと思われる)、そして本作『セッション』でした。
この『セッション』のチョイスを見た時にゃ思わずニヤリとなり「わかってるゥ~!」とハシャいでしまいましたね。というのも本作、90分尺はちょっとオーバーしての106分映画なのですが、どこかポンポさんの映画に通じる部分がある「徹底した引き算映画」であるからです。

映画の内容はシンプルで、偉大なジャズドラマーに憧れながらも音楽学院で燻っていたアンドリューが、その才能を学院最高の指導者と称されるフレッチャーに見出されて最上級クラスへとスカウト。同時期に彼女も出来たアンドリューは人生登り坂、スターダムへの一歩を踏み出したとばかりに意気揚々と授業に参加しますが、実はフレッチャーは学生に軍隊の如きシゴキを課す狂気の鬼教師で……というもの。
自然、話のほぼ全てでフレッチャーは鬼の形相で罵詈雑言を吐き、叫び、椅子を投げつける暴力も辞さないなどストレス全開で話が進みます。

フレッチャーを演じるJ・K・シモンズが鬼のようなブチギレっぷりを魅せ、あまりの迫力と執拗さから観ているこちらの胃と心臓を絶えずキリキリさせていくのが凄まじい。顔面の圧と「ファッキン・テンポ!!」に代表されるFワード、度を越えたスパルタ指導の数々が並の恐怖映画よりも恐ろしく映ります。
そんな最低最悪の地獄が展開されるため、音楽映画というよりスリラー映画のようでもあります。

アンドリューからしたらやっと認められたと思ったら、史上最悪の鬼教師と出くわしてしまって天国と地獄って感じですが、彼はそこに必死になって食らいついていく。それだけアンドリューもドラムとジャズに命を賭けているし、その結果として偉大な男になることに尋常ではない憧れを抱いているからです。
途中、親戚との会食で、確かな結果を出している自分よりも、ロクに結果も出していないのにアメフト選手(所謂ジョック層)だからで評価されるイトコを見て暗澹たる顔をする描写が入るように、彼の中では絶えず反骨精神が渦巻いている。だからこそ、叩かれれば叩かれるだけ自分もドラムで叩き返して強くなっていく。実はフレッチャーの鬼方針にこれ以上なく適応してしまう人種だったという展開が凄く熱い……のであればサワヤカスポ根になるんですがね……実際はもっと最悪の方向で適応してしまいます。

フレッチャーの鬼指導に反骨精神で対抗し確かな技術を身に付けていく。それは紛れもない事実です。しかし、アンドリューは次第にフレッチャーが発する狂気にすら飲み込まれていってしまうのです。
前述の親戚との席では溜まった鬱憤を晴らすかのようにイトコをあからさまに見下して馬鹿にしますし、フレッチャーのバンドの中でも「自分が一番」という傲慢さを増長させ、コンペで代役を指名されれば「クソ野郎」と面と向かって罵って孤立していく。
傲慢さの最たる部分は「音楽の邪魔」と一方的に決めつけて、彼女を平然と捨てるところでしょう。もう完全に人間性を切り捨てた狂気のクソ野郎ですが、その狂気性まで帯びた熱意は遂にフレッチャーに認められるまでの技術へと昇華されます。

本作のミソなところは、アンドリューがフレッチャーに悪い意味で感化されてクソ野郎に成り果てたんじゃなくて、最初からクソ野郎だったんだろうなってのが何となく察せられる部分でしょうね。
彼の反骨精神の根源って、要は「俺がこの中で一番優れている」って思い上がりや傲慢さなんですもん。なんせ、フレッチャーに見出される前から、アンドリューは一人教室で黙々とドラムを叩いていました。多分、その内なる傲慢さから既に孤立していたか、元から人を寄せ付けなかったかのどちらか。どちらにしても、友達を作れない性格であることは確かです。
彼女との初デートにしても、選ぶのが庶民的なピザ屋って辺りが何とも。いや、別にピザ屋でデートしたっていいんですが、そこを選んだ理由が「素晴らしいジャズが流れているから」という自分の好み一辺倒ですからね。挙句、彼女の好きな曲とか無視してジャズ以外をこき下ろすし、彼女がジャズに興味がないと知ると「人生損してるね」みたいな態度になるのも厭~な感じです。
初見時は「ジャズ以外で語ることが出来ない不器用な人」くらいに受け取れたけど、クソ野郎因子を見事に受け継いだ後に思い返せば「ジャズが大好きな俺の価値観が絶対でそれ以外全部クソだと思っている人」でしかなかったって凄いバランスだ。

そんなクソ野郎2人が組めば、まあ本当にクソッタレな方向に話が進むワケで。
アンドリューは車で事故を起こしても血塗れで演奏をする行き過ぎた狂気によって退学に、フレッチャーもかつて教え子を自殺にまで追い込んだことがアンドリューに露見し彼の告発によって失脚……と狂気の相互作用によって仲良く破滅します。
それでも2人とも音楽しか生きる道を定めていなかった為に、結局は音楽の道に舞い戻る。退校したことで憑きものが落ちたのかフレッチャーはアンドリューに穏やかに「お前のドラムが必要だ」と誘いをかけますし、アンドリューも彼が偉大なジャズミュージシャンを生み出すため鬼教官に徹していたことに絆されてその誘いに乗ります。
ここまでは何だかんだ似たモノ同士の絆かと思ったんですよね。時に反発もするけど根源は同じだからこそ一緒にやりたいっていう。

まあ、フレッチャーがそんな甘っちょろいことをするワケがなく、アンドリューをフェスに招集したのは一重に彼に対する制裁の為です。
当日になって豹変したフレッチャーは、事前にアンドリューに知らせていなかった楽曲を指揮。当然、初見の楽曲をロクに演奏できるワケがなく、アンドリューは大衆の面前で大恥をかかされます。「お前に才能はない」と冷たく言い放たれ、絶望しつつステージから去っていくアンドリュー。
しかし、そこでアンドリューの中で溜まっていた怒りが爆発。反転してドラムの前に戻ったアンドリューは、フレッチャーの指示を無視して一人一心不乱にドラムを叩き始める。激昂するフレッチャー。しかし、そのあまりの気迫に周りのバンドメンバーも釣られて演奏を始めてしまう。
ここでフレッチャーは気付いてしまうのです。自分がこれまで「偉大なジャズミュージシャン」に必要だと信じてきた条件「反骨精神の極み」にアンドリューは至ったのだと。

アンドリューの気迫に呑まれるがまま、指揮を始めるフレッチャー。アンドリュー最高のパフォーマンスの前に、気分は徐々にアガっていき彼の顔には歓喜が浮かびだします。そして、曲が終わったその後も続くアンドリューのドラムロール。フレッチャーの指揮すら逸脱したアンドリューの独壇場。もはやフレッチャーの歓喜は抑えきれず、アンドリューの指示に従いながら指揮をするという逆転現象すら生じます。
徐々に熱を持ち出すドラム、反対に精神を集中させていくアンドリュー。その最中に緩んだシンバルをフレッチャーがそっと戻すシーンにグッと来てしまう。あのフレッチャーがここまでやるということは、この演奏はもう何人も邪魔できない究極にして至高の領域に向かっているということです。会場はこの2人だけの『セッション』となり、完全にシンクロしだすフレッチャーとアンドリュー。もっと早く。さらに早く。ファッキン・テンポが極限まで早まったその瞬間、最大の歓喜がやってくる……
キャッチコピーに偽りなく、ここまで圧倒されたラスト9分19秒は今までなかった……あまりに美しく完璧すぎる空間が、あの瞬間に画面の中には存在していたのです。



本職のジャズ・ミュージシャンの方からすると、ドラムのテンポのみを執拗に指導していくフレッチャーの方針などツッコミ処は結構多いらしいですが、ジャズや音楽に詳しくなく、良し悪しの判断もよくわからない自分にとっては「血豆が潰れて流血するほど」のスゴ味表現は少年漫画的でわかりやすくて有難かったです。
それに実際はどうあれ、『Whiplash(鞭打ち)』を原題とする本作においては、予めテンポに絞って話を展開させた方がスマートですし、物語としても多重の意味がもたらされて奥行きが増します(①作中で演奏されるジャズの名曲『Whiplash』、②鞭打ち=フレッチャーのスパルタ指導、③アンドリューのドラム捌きが鞭打ちのよう)。
ジャズバンド経験者で、そのあまりに熾烈な競争社会に打ちのめされたデイミアン・チャゼルとしても、そのジャズ世界の狂気は強調したかったハズ。そのため、敢えてフレッチャーとアンドリューに負の側面を凝縮させてまで「音楽の狂気と歓喜」というテーマを体現させたのでしょう。

それにフレッチャーの教えが間違っていると言っても、あのクソハゲ、世間的・学院的な名声に反して音楽家として有能かって言うと別にそうでもないって感じに描かれていますしね。優秀な才能を持つ生徒達を自ら潰すどころか、生徒同士で潰し合わせる采配とかどう考えても優秀な教授の方針ではない。
クソハゲ、アンドリューとの初授業時や和解しようと見せかけていた時は優しく接して騙せていたり、コンサート会場で会ったスポンサーの娘に対して「将来は立派な音楽家になるぞ~」みたいな甘い声出したりで、外面だけは異常に良いですからね。生徒に自殺者まで出しておきながら、そのことをアンドリューに告発されるまで問題にさせなかったりと隠蔽力も異様に高い。
要は、彼が固めた地位ってのは指導力や音楽力によるものではなくて、むしろ政治力が高いからこその可能性が非常に高い。こういう小細工が巧いところがクソハゲのクソハゲたる由縁でもあって、僕も遠慮なくクソハゲって罵れるってもんです。


アンドリューはクソハゲを音楽に対しては真摯と思っていましたが、個人的な復讐の為だけにコンサートで一曲台無しにする所業を行ったので、ぶっちゃけそれも怪しい。いくら小さなコンサートとは言え、楽しみにしてきている人の想いをも踏み躙ってますからね、このクソハゲ。普通に音楽愛もそんなにないと思うよ。
そして、あの演奏の後は「俺の教育は間違ってなかった!」と思い込むでしょうから、エンドロール後も改心せず、ずっと小賢しいだけの音楽愛皆無自己中パワハラ無能クソハゲのままでしょう。

アンドリューはアンドリューでこの演奏会で渾身のドラムパフォーマンスを披露し、自信をつけたとしても、結局クソハゲから傲慢さを受け継いじゃったままなのが危うすぎる。
多分ですけど、エンドロール後にどこぞからスカウトされても、またすぐ増長して何か問題起こすに決まっているんで、彼もとても素直に成功するとは思えません。

でもそれでいいんです。
あの2人がエンドロール後も最悪のままでも、未来で破滅しても。
何故なら、あの9分19秒だけは間違いなく傑作だったんだから。
良いとか悪いとか、過去とか未来とか、そういったものを全て超越した別次元へとあの演奏は到達していました。

そんな「2人だけの聖域」を実現してしまった以上、『セッション』という映画はこれ以上語ることがなくなってしまったのです。
だからこそ、常道の映画であれば必ず挿入する筈の演奏が終わってのスタンディングオベーションや、その歓声の中で静かに讃え合うアンドリューとクソハゲといった描写を全部省いた。だって、どう考えてもそんなわかりきった映像要らないですもん。演奏中のアンドリューのシンバルの位置をクソハゲが直してやった時に、もう既に全部やり切っちゃってたんですもん。

なのでドラムのテンションが最高潮に達したその瞬間、映画は潔く幕を閉じる。
最後に映ったのは歓喜のクソハゲのドアップという微塵も華がない絵面だけれども、映画としてのテンションが最高点に到達したこの瞬間こそ、エンドロールを流す瞬間なのです。
この最高のラストのために、邪魔なものは全て差っ引いた究極の引き算映画と言えるでしょう。

傑作!!