あまのかぐや

怒りのあまのかぐやのネタバレレビュー・内容・結末

怒り(2016年製作の映画)
4.6

このレビューはネタバレを含みます

沖縄、東京、千葉の場面がモザイクのように切り取られバラバラとでてくるので、ちょっと混乱する人もいるかもしれない。
そして沖縄の男(森山未來)、東京の男(綾野剛)、千葉の男(松山ケンイチ)。
同じ系統の顔。たぶんわたし素の彼ら区別できないよう。

バラバラに配した3地点、同じ系統の顔の3人の男。犯人のモンタージュも誰もが疑わしく見せてるし、これが犯人探しモノとしてのミスダイレクションだったのかな。(すいません邦画の俳優さんはあまり詳しくないわたしが悪かった)

テーマを述べよ、といわれれば、とても判り易い。

「疑い」と「信じ」。
「怒り」と「赦し」。


このキーワードをもとに、実力派といわれる俳優たちが、完璧なまでに素の彼らを消し、「怒り」という映画の世界のさまざまな人間模様を見せる。

渡辺謙は「娘を信じられなかった父親」
宮崎あおいは「愛する人を信じられなかった女」
妻夫木聡も「愛する人を信じられなかった男」
綾野剛は「自分を信じられなかった男」

千葉のエピソード。
父(渡辺謙)は、どこか娘の障害を理由に、自分の甘さを赦し、娘の行動も赦してきた。娘(宮崎あおい)は最後には自分を赦し、彼を迎えにいった。
この父娘2人の怒りは己の中に向かっている「大事な人を信じなかった自分への怒り」。

東京のエピソード。
死期近い母は息子(妻夫木)の生き方を無条件に赦した。
綾野剛は、最期に、自分を疑った恋人を赦せたのだろうか、そして自分の(はたから見れば)特異な性を、死の間際、赦せたのだろうか、が気になる。

なかで一番キツく、救いが見えないのは、やはり沖縄の3人の物語で、だからここに物語の核心(不条理な犯行と不条理な男)が存在したんだと思う。
わたしなりの解釈をゆるしていただければ、八王子の事件の不条理さ(動機=「目の中に憐れみがあった」)がここに結び付くと考えればいいのかな。

このエピソードには「赦し」は見えない。「怒り」と「信じること」は確かにあったけれども。ひとつの「信じ」は裏切られ、宙に浮いたまま放り出された。「赦し」は、この先、若い2人の未来にゆだねられる。すずちゃんはタツヤ君を信じてると思うし、わたしも信じたい。自分の事件をくちにすれば情状酌量になるかもしれないタツヤ君は、それでも決してそれを話さないだろうと。もうひとつの「信じ」の果てに、そこに赦しが生まれるかは分からないけれども。それは現実の沖縄とアメリカの関係と一緒のような気がする。

平日朝いちの回でまわりの席には、年配、それ以上のお年を召したご夫婦が多かった。
観ながら、彼らの倫理感として、過剰なゲイ描写のシーンは辛いんじゃなかろうか、と思って・・・。鑑賞しながらも、こっそり気になってしまった自分がいて情けなくなった。
けど、これも観客の側も「赦し」を求められているのではないかな。理解できないものは許さない人たちに向けて。
綾野剛の「隣の墓」発言よりも「理解しようとしない人はいるし、仕方ないと思う」といったセリフのほうが、とても辛く思えた。

沖縄と米軍の話も、「怒り」と「赦し」そして「疑い」が交錯する、とても現実問題として繊細な話題だと思う。そこを真っ向から切り込んでいったのはすごいな、と思うけど、その感情の行先を観た人にまかせるのはずるい(いい意味でね)

宗教観が薄いといわれる日本、神様を信じ、神様に赦しを求めることのできない日本人は、怒りも赦しも疑いも信じることも、すべてその身ひとつ心ひとつでやりくりしなければならなかったし、これから先もきっとそうして永らえていくのだろうな。

シンゴジラを観たとき、この映画は諸外国には理解するの難しいだろうなと思った。同じように、この重たい感情の行先も、諸外国で「わからない」というひとがいるかもしれない。信仰をもたない(信仰に逃げない)島国が、ようようコントロールしてきた感情も、ある意味、強さと言えるのではないかな、と思った。


あ、邦画的難癖つけさせて。一つだけ。
最初の八王子の犯行現場と、犯人自宅ガサ入れシーン。真夏の蒸し風呂状態で、血と遺体と腐敗物。それらの、かなりものすごいであろう悪臭までは感じられなかったのが、ちと残念。わたしは思わず息止めちゃったけど捜査員たち全然へーきそうだった。

それは置いておいても、今年は邦画大豊作だね。わたし今年3作品も劇場で観てる!新記録!
あまのかぐや

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