ゆーあ

シン・エヴァンゲリオン劇場版のゆーあのネタバレレビュー・内容・結末

3.5

このレビューはネタバレを含みます


『新世紀エヴァンゲリオン』がTV放映していたのは、小学生初めの頃でした。その頃は何だか怖いし、難しそうだからほとんど観ていなかったのだけど、綾波の「ニンニクラーメン、チャーシュー抜きで。」のシーンと、アスカがラベンダーの香りに気づくシーンが流れていたのは覚えています。その後TVアニメシリーズ、旧劇、そして新劇はすべて映画館で…と本編は一通り履修していますが、

はっきり言って全ッ然理解していません。

ゼーレが何者なのかとか、人類補完計画とは何なのかとか、そういう根幹レベルの設定すらよく分かっていない。そしてそれがどこまで「普通に観てれば一般的にわかること」なのか、「明言されないまま謎に包まれている状態」なのかもわからない。ゆえに、最終決戦では何を言っていて、やっていて、何をすると何が起こるのか、だから何が効果的なのかとか、完全にちんぷんかんぷんだった。それなのにすごく面白かった。だからエヴァってスゴいんだよなと思う。

そんな理解度なので、はっきり言って私にエヴァの感想を書く資格はないです。しかしせっかく「エヴァが完結した」というターニングポイントに立っているので、何か残しておきたいと思ってこれを書いています。当然ここから先の文章に考察なんかあるわけないし、作品的、社会的な認識が誤っている可能性もかなりありますが、イチ個人の感覚として読んでもらえたら幸いです。

観終わった感想は、まず何より「エヴァって終わるんだぁ」と思いました。個人的にエヴァって「90年代のオタク文化」の象徴だと思っています。もちろん2000年代に新劇があって、その間にもゲームやパチスロ、イベントなど様々なメディアで世に顔を出しており、全くサビも風化もしないコンテンツだったのだけど、その強靭な耐久性と、その割にいつまでも出ない続編のおかげで、「オタク文化の最前線で生き残ってる90年代」というイメージが強くありました。その「永遠に終わりが来ない感じ」にはモラトリアム的な心地よさがあり、「まあエヴァも完結してないし」というのを言い訳に、「僕、まだ90年代にいてもいいんだ」という、オタクとしての自分の心の安らぎになっていたような気がします。これがいわゆる「エヴァの呪い」ってやつでしょうか?

とはいえ現実の年月は流れて、あの頃エヴァを見ていた子供のは肉体的も社会的にもある程度大人になった。それにともない変化する精神的苦悩の質において、TVシリーズではシンジ君に共感していた観客を、『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』ではゲンドウに共感するように意識して作ったのかなあと、終盤の展開を観て感じました。

そしてそれぞれの苦悩の認識、受容、解放を通して、キャラクターは成長し、大人になり(なることを受け入れる)、エヴァンゲリオンシリーズは完結する。このあたりの描写として、一番好きなのはアスカですね。「他人を必要とするな」と自分に言い聞かせてきた彼女が、「あの時、あんたのこと、好きだったんだと思う。」と言ったのが、すごく良かった。一方でゲンドウには、そうは言うけど、わかるけど、ずっと隣にいて、最後まで自分を支えてくれた人がいるじゃないか…冬月先生という…!て思った(笑)。でも最後、冬月先生も綾波と同じ形で消滅したから、もしかしてゲンドウが作ったのか、自らそういう存在になったのか…?このあたりはもう絶対分からない!

とうに過ぎ去っていると分かっているのに、居心地の良い「古き良き時代」の残照にとどまっていた足を、現在、そして未来に踏み出す。この点で『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』に一番近い作品は『T2 トレインスポッティング』だなあと思いました。80年代にケジメをつけて自室で踊るレントンと、90年代に落とし前をつけてイイ女の手を引いて駅のホームを走り出るシンジ君。それを観て自分も「まあエヴァも完結してないし」という気持ちから、「まあエヴァも完結したし」に切り替えてやっていこうかなと思いました。
ゆーあ

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