140字プロレス鶴見辰吾ジラ

聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディアの140字プロレス鶴見辰吾ジラのレビュー・感想・評価

4.2
”私は「聖なる鹿殺し」を見た”

「ロブスター」にて私のハートに注射針を刺した、ギリシャの奇才、ヨルゴス・ランティモスの新作が公開されたとあり、3月の超激戦区と多忙な仕事状況を縫うように、早起きして上映終了前にたどり着いた「聖なる鹿殺し」体験。

冒頭の暗転から最初に映し出される手術の光景。
開かれた胸に鼓動する生の心臓の絵に驚愕した。
「覚悟はできた。」と胸の奥でつぶやき
対するヨルゴス・ランティモスの世界。
120分後・・・
流れゆくエンドロールを眼前に、静かに首を垂れる私。

ヨルゴス・ランティモス
やはりこの男は凄い。

前作「ロブスター」のファニーな世界観にして冷徹に世界を動かしていくイメージと、不条理であるが美しさを内包したエンディングへ着実な歩みに身震いしたわけだが、今作は前作以上にエンターテイメントをしてのスリル・サスペンスの味付けをした面白さが乗っていた。しかしながら、それでも冷たく、白く、不穏で、寓話的で、気味が悪くて、のめり込んでしまう今作の奇妙な面白さに感服といった感情が残った。

優秀な心臓外科医の主人公
美しい妻と可愛い娘と息子
そこに家族外の少年が1人

ゆったりとだが着実に、配置されたキャラクターの立ち位置が明確になっていき、主人公はかつて飲酒をして手術に臨み、とある少年の父を手術中に死亡させてしまっているという前提にたどり着く。そして罪悪感から、その少年に施しを与えていた・・・

ここが明確化されキャラクターが淡々とながら各役割に落とし込まれて動き出すストーリーが不穏で眼が離せない。元ネタはギリシャ神話の「アウリスとイピネゲイア」ということだが、別にイソップ童話のような日常に寄り添う寓話としてとらえても差し支えないだろう。

驕り高ぶったがゆえに、優秀な者の立ち位置や父親としての支配権をある時に崩されて、取り返しのつかなくなっていく様を童話のように滑稽でなく、ひたすらに精神をかき乱すディスコードなオーケストラサウンドで異形な世界へと引きずり込んでいく。

絶対君主にような父の振る舞いと、妻の行動理論、娘と息子の優劣と家族という箱庭めいた世界に、先で話した父を手術中に亡くした少年の混入により、取り返しのつかない事態へと傾く様は、驕りによりすべて支配できると過信した父、この場では手術の執刀医=人の命を左右できる神的な存在の判断ミスが、露わになっていなかった本来の狂気性に触れてしまう流れを寓話的に描いている。コントロール外の不気味な少年を「ダンケルク」で船の1時間にて登場したバリー・コーガンが見事にヴィジュアライズしていて思わず唸る不気味っぷり。主人公の支配の傘下には入らず、距離を詰めていき、家庭にまで入り込んでいく不気味さに「北九州連続殺人」の家族外の部外者が日常に入り込んで、箱庭を侵す恐怖を思い出した。

中盤からオカルティックに話は進み、少年の力によるものか、息子と娘は下半身麻痺に加え摂食障害へと変貌していく。呪術的なものか否かは劇中では明確化されないが、少年が「時間がないから手短に説明するね」と早口で明かす本作のミッション提示のシーンは、役者の芝居と雰囲気設定が最高にマッチした身ぶるするようなシーンだった。オカルティックと上記で書いたが、今回は神話をベースにした不条理な寓話であり、ランティモス監督のシニカルな映像語りの無機質さが見事に素材の味を引き出している。なぜなら常にカメラワークはどこかドッキリ番組を見ているような遠くからのカットでキャラクターに寄り添う劇的なものではない。そして主人公が歩行するシーンやある事象が発生するシーンは、絶妙なまでの視点やズーム、カメラの引きで構成されていて、いわゆる神の視点とドッキリ番組のカメラのように、常に「おまえの所業は見られている」というメッセージ性のように感じられた。主人公が歩く、後方斜め上からの追跡するカメラワークや、真上から満を持しての事象発生の瞬間、主人公の焦りと怒りをロングショットで監視しているように見えるシーンは特に唸ってしまう。

そして物語はクライマックスへとひた走るが、支配者の陥落と世界の制御ルール変更というミクロ視点で変革と、家族集団の圧政が弱まったことで浮かび上がるエゴの解放にグイグイとことの顛末への興味を掻き立てられ、そして最後に映される間抜けなシーン(ぐるぐるするシーン)の不意打ちの様式美の砕きまで、計算された神視点じみた(パンフでキューブリックが引き合いに出されていた)寓話世界を目の当たりにてしまった。「私は”聖なる鹿殺し”」を見たという体験記に至る後味である。