平野レミゼラブル

サウンド・オブ・メタル ~聞こえるということ~の平野レミゼラブルのネタバレレビュー・内容・結末

4.5

このレビューはネタバレを含みます

【無音という音】
音感があまりに無く、ドルビーサウンドはおろかステレオとモノラルの違いもわからず、何千円かするイヤホンを買っても違いがよくわからんから100円のでいいな!って結論に至るくらいの貧乏耳を持つ僕ですが、それでも昨年アマプラで配信されて以降、度々話題に上がっている「音」をテーマにした本作については、しっかりとした音響設備の劇場で観たいなと思っていました。
そして、遂に遅ればせながら今月から音響にこだわった劇場に限っての劇場公開が解禁。早速、最近サブウーハーを増設して高解像度の重低音出力「ブーストサウンド」を実現したシネマート新宿の大スクリーンで観賞してきました。


なるほど、確かにこれは凄い!!
音響に拘りに拘り抜いた作品で、何よりも音を大事にしたからこそ、邦題の「聞こえるということ」の大切さを否応にも突き付けてきます。しかし、その一方で反対となる「聞こえないということ」の意味を同時に突き付け、映画を「聞いて」楽しんでいる観賞者に「聞こえないままに」楽しむ価値観の在り方に気付かせてもくるのです。
また、本作はバリアフリー字幕版となっていまして(お湯が沸く音)(悲しげなBGM)等の状況説明の字幕も入る「聞こえない」人の為の映画にもなっていたのが印象的。音が大切な映画のため、聞こえるのであればそれに越したことはありませんが、聞こえない人も同様に楽しめる映画ということも示していて、なんかその配慮にも嬉しくなっちゃいましたね。

ストーリーは突如難聴となってしまったドラマー・ルーベンの苦悩と葛藤を描いたもの。ルーベンは恋人のルーと一緒にトレーラーハウスで各地を巡ってライブを続け、その日暮らしながらも好きな人と好きなことをしながら豊かに暮らしていたのですが、医者からも治る見込みがないとされる難聴になったことで絶望。人工内耳のインプラント手術も高額で払えず、ルーベンは次第に荒れていきます。そんなルーベンを見かねたルーの勧めで、ジョーというルーベンと同じく後天的難聴者となった男が主催するろう者のコミュニティに参加することになるが……といったもの。
ルーベンに突如訪れる試練であり、艱難辛苦である難聴を観客に伝えるために本作は映像以上に“音”に拘った展開をしていきます。

序盤のルーベンとルーの現状を表すシークエンスからして丁寧。まず、“聴こえる”というより身体の芯から“響く”メタルの音から始まり圧倒させられます。
続いてルーベン達の暮らすトレーラーが映され、起きたルーベンが腕立て伏せをして、朝食を準備し、ルーを起こす一連のモーニングルーティンを、それぞれ「布擦れ」「コーヒーを沸かす」「卵を焼く」「声をかける」などの音だけで丁寧な暮らしを演出しています。その後も、トレーラーを移動させながらルーと他愛もないくだらない会話を楽しむ件を入れて、「聴こえるからこそ出来る」何気ない幸せを強調していく。

そんな中で、ある日突然にその「幸せの音」が歪み、聴こえなくなっていくサマを音響を通して伝えてくるのでルーベンの苦しみというものもダイレクトに伝わってきます。
音楽で食べてきたのに、音楽が不協和音になることによる先行き不穏と純粋な気持ち悪さ。
今まで当たり前に聴こえてきたものが、聴こえなくなることで異世界に来てしまったような断絶感。
言葉によるコミュニケーションが出来なくなったことで生じる親愛の人への疑心暗鬼。
日常生活の中の音を何より大事に切り取っていた本作だからこそ、ルーベンが荒み、行き場のない思いをモノにぶつけて暴れるサマも理解できてしまうのです。

そんなルーベンを心配したルーが紹介したのがろう者の集まる支援コミュニティ。そこは先天的・後天的に関わらずろう者が集い、自助的に暮らす団体でして、そこでルーベンはろう者として生きる道を学んでいくことに。
ろう者としての生き方に慣れないといけないということで、スマホなどの通信機器を使った外部との接触や外出は禁止。そのためルーは一時親元に帰り、連絡を取ることもできなくなってしまうため、再びルーベンには音も頼れる人もないという孤独が訪れることになります。

施設の代表であるジョーは戦争で音を失ったというルーベンと同じ後天的ろう者。それ故に彼はルーベンを常に気にかけますし、彼の気持ちも汲んではくれるのですが、コミュニティのルールには厳格。
ルーベンも隠れてルーの現状を確認して心の平衡を保ってはいるものの、基本的に手話で成り立っているろう者たちの中に放り込まれても不安で仕方ないのです。
このろう者のコミュニティ描写ですが、ブルックリンのろう者コミュニティと綿密な協力体制を築き、ほとんどのろう者のキャストも実際のろう者というのだから非常にリアリティに溢れています。例えばルーベンに手話を教えるコミュニティの学校教師・ダイアンを演じるローレン・リドロフは実際に聴覚障害を持つ役者で、過去には『サイン・ジーン 初代ろう者スーパーヒーロー』(凄いタイトルだ)、今年ではなんとMCU『エターナルズ』でろう者のスーパーヒーローを演じて幅広く活躍しているのだから凄い。
ジョーを演じるポール・レイシーはろう者ではないものの、両親が聴覚障害者で物心つく前から言葉でなく手話で会話していた人というのですから、とことんろう者コミュニティのリアリティに拘り抜いています。『ドライブ・マイ・カー』でも言語の一種として「手話」が登場して劇中の演劇に活かされていましたが、この多様性時代に「手話という演技」の手法が切り拓かれるのは興味深く素晴らしいことですね。

要は疑似的にろう者のコミュニティを築き上げ、その中にろう者ではない役者を投入して演じさせているワケで、その点のアプローチは『ノマドランド』と似たようなものを感じます。
この系統の映画の良い所は、観客と同じ目線を持つ主人公を通して、全く知らない世界の価値観や境遇を知ることが出来るところでして、ルーベンから見えるろう者のコミュニティの実情というのは予想外の連続でした。
まず、音が聞こえない人の集まりなのに物凄く賑やかで騒がしいんですよ。食事の時間が顕著なんですが、みんな手話で会話したり、スプーンで食器を叩いたりテーブルを両手で叩くなどの大きな身振り手振りで感情を表現したりしている。そこには音が聴こえないことを不自由に思う人は誰一人なく、健常者の思い描く楽しい食卓となんら変わらない光景が広がっているのです。
ジョーの掲げるこのコミュニティの大前提というのが「聞こえないことと向き合うこと」であり、ここに住まうろう者達はみんな「聞こえないということ」を受け入れて、その上で「幸せに暮らすこと」を模索して楽しく日々を過ごしているのです。

最初こそ手話が全く理解できず、そしてその「聞こえないということ」の価値観も理解できずに苛立つばかりのルーベンでしたが、彼が小学生に混ざって受けている音楽の授業で転機が訪れます。
ろう者の子供たちは床に耳をつけて、演奏者の出す音の振動を直に感じて楽しんでいたのですが、そこでその楽しさを理解できない少年がいることにルーベンは気付きます。そこで、ルーベンは彼を外に連れ出し、ドラマーの手捌きですべり台を叩いて少年に音の響きを伝えていく。すると、少年はすかさずすべり台を叩き返して音のセッションが始まります。
教室での退屈が嘘のように、夢中ですべり台を叩き合って“音”を教えて打ち解けていくふたり。この瞬間、ルーベンは「自分の音楽がろう者にも届くこと」を理解し、少年とのセッションを通して「ろう者とのコミュニケーションの楽しさ」を身を以て体感するのです。この新たな価値観を知る過程がとてもステキで美しいものでした。

そこからはジョーの指導もあって、ルーベンは聞こえないストレスへの対応方法をも会得して精神的な落ち着きも取り戻します。最初は孤立感の象徴だった食卓も、手話を学んだことで流暢に会話をすることで幸福な食卓に変わったのも印象的。
何より子供達にドラムを教えることは、自分が諦めかけていた音楽への意志も取り戻すことに繋がったことでしょう。


しかし、馴染みはしたもののコミュニティとの「聞こえないということ」の価値観には微妙にズレが生じていました。
ルーベンは音を取り戻してルーと再び元の暮らしを送ることは諦め切れてはおらず、ジョーには内密にインプラント手術のための準備を整えてしまいます。そして、施設から逃げるように病院へと向かい手術を受けます。
かつては音が聴こえていた同じ境遇だったからかジョーもルーベンのコミュニティのルールを破る行動を責めはしません。それどころか、その決断の先に訪れる幸福も祈ってはくれるのですが、「聞こえないということ」を受け入れたコミュニティの大前提を守るためにルーベンにその日の内に出ていくように告げます。こうしてルーベンは、やっと手に入れた理解者や安住の地を失うことになります。

ただ、残酷なのはいよいよ手術の効能が出て、待ち望んだ音が聴こえてきたその日。
インプラント手術は100%音を取り戻す手術ではなく、あくまで高性能マイクで拾った音を振動で脳に埋め込んだチップに伝えて騙して聞こえさせるもの。そのため、実際に聞こえてくる音というのはノイズ混じりの紛いものの音なのです。
本作は、要所要所でルーベンの聴覚とリンクする演出が施され、手術後の音はルーベンの聴こえるそれと同じなのですが、聞こえてくるそれは不協和音が絶えず響き渡り、人の言葉は機械音のようという違和感しかないもの。元から聞こえない人であるならばともかく、元の音を知るルーベンにとっては理想から程遠いということが“体感”をもって知らされることになります。

そして、ルーベンの聞こえる世界はまたしても変わってしまいましたが、実際に関わる世界は何ら変わりません。
久しぶりに出会ったルーは変わらず自分を愛してくれていますし、ルーベンを最初はムカつくヤツだと評していた彼女の父も、彼女が大変だった時を支えてくれた恩人と考え直して(ルーが過去に精神的に不安定だったことは、手首のリストカット痕でさり気無く示しているのがミソ)快く迎えてくれます。
そんな彼女の父の誕生パーティーは、心機一転したルーベンを受け入れる新たな安住の地として機能する……ハズでした。

長回しで映すパーティーの様子はとても和やかで、誰も彼もがルーベンに優しく接してくれる幸福に満ち溢れた素晴らしい世界でした。父との長年のわだかまりを解消したルーが彼のピアノ演奏で歌う歌声は、その世界の温かさを表すほどに美しく響き渡ります。
しかし、視点がルーベンに移った瞬間にその美しい歌声は醜く歪み、人を常に不快にさせるノイズになってしまうという……
ルーの家はコミュニティと同じ、ルーベンにとって恵まれた環境であったハズなのに、音一つで正反対の地獄と化す音響表現が凄まじい。ルーベンもこのままではルーと元の生活に戻るどころか、却って彼女を不幸せにしてしまうと悟り、彼女と別れる決意を決めます。

ルーの家を離れ、手術の為にトレーラーをも売り払ってしまったルーベンに帰る場所はありません。紛いものとは言え音が聞こえる道を選んでしまったためコミュニティに戻ることも出来ないのです。
そんな、行き場のないルーベンの不安に合わせるかのように世界は不気味な音を奏で続け、観客にもダイレクトに伝えてきます。
人々の話声は気持ちの悪い囀りに。
車の音は何かを引き摺るような耳障りな音に。
祝福を示す鐘の音さえ、精神を病ませる不吉の象徴に。

「聞こえるということ」に耐えかねたルーベンは耳についた装置を外してしまいます。その瞬間、今まで自信を苛む原因であった音は消え、嘘のように平穏な静寂が彼を包む。
雑踏も、車も、教会の鐘も、全てが動いているのに何も聞こえない「無音という音」。
その無音を“聞いた”ルーベンの表情は次第に穏やかとなり、真に「聞こえないということ」を受け入れることになります。そして、映画も無音状態がしばらく続いたままエンドロールが流れ出していく。このラストが圧巻すぎました。

本作は「音」をテーマにしただけに、音響表現に拘り抜き、終始素晴らしい音を響かせていましたが、結局のところ全てはこのラストの「無音という音」を際立たせる為の音響だったのです。
どこにも行き場を無くし、絶望しかないと思われたルーベンですが、彼のその後はこの「無音」が全て示しています。きっと彼は「聞こえるということ」よりも「聞こえないということ」を前向きに受け入れて、そちらに相応しい人生を送るのでしょう。
音が聞こえない人達がいかに静寂を受け入れ愛していたのか、またその生活がいかに尊重されるべき素晴らしいものなのかを、逆に「聞こえるということ」を通して伝えてくるスゴ味よ……
日本版副題と併せて称賛に値するラストです。


聞くところによると、本作はアマプラで配信されている吹替版も音響に拘っているらしく、微かな声や、ノイズのような機械音に至るまで原語版同様に緻密な調整を施しているとのことでそちらも気になります。
ただ、クライマックスの「無音という音」については、生活音等がどうしても混ざる自宅での観賞では味わえない余韻となっているため、機会があれば劇場での観賞を一度オススメしておきます。

超絶オススメ!!