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ミュジックのこどもたち
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『ミュジックのこどもたち』に投稿された感想・評価

毅然と憎しみの感情を爆発させる主人公のたたずまいが美しい。憎しみが美しいというのが粋である。映画のヒロインとはこうでなければならない。家の内から外へ、あるいはその逆へ、彼女は自分の居場所を見つけようと絶え間なく移動する。まるで映画そのものが居場所を見つけ出そうとしているかのように。それにしても、ここはいったいどこだろうか。街のような森のような、この世のようなあの世のような…全ての境界線が曖昧になった一種の寓話的世界で、コミュニティの崩壊と再生が思いのほか壮大に描かれる。それと、森の中で突然行われる情事がまことにエロチックだった———黒沢清

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映画は、たとえどんなに荒唐無稽な世界であっても、それを「信じる」ように仕向けられる。その世界に綻びがないよう細心の注意が払われる。しかし、ここでは映像と映像が相互に補いながら一つの出来事をスムーズに了解させるよりむしろ、断絶し、エッジを際立たせ、世界は軋みはじめる。震えのようなその綻びには、何かのっぴきならないアンビバレンツな力学が働いており、そこに「映画」と向き合う作者の精神が現れていると思う。山間の古い家屋で世界と隔絶し、銃によって「命を頂いて」暮らし、やがて気球で好きなところへ自由に飛んで行こうとするマサたちの暮らし=孤立したユートピアが箱庭のように描かれるのであるが、地上にもはやユートピアが不可能であるとすれば、本当に空を飛んでいかなくてはならないのかもしれない。しかし、私たちは目に見えるものよりも、この軋み(音楽)こそを信じるべきなのだ。冒頭のマーフの微かな歌声が、やがて、堂々とした死者とのコーラスとして響くとき、音楽はその綻びから物語を超えて世界へ染み出すような感動的な響きを湛えている———諏訪敦彦

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マーフはなんども振りかえる。ときには数コマの断絶した襞さえその身にひきうけて。オルガは目を瞑ったが、マーフは瞑らない。振りかえったさきで彼女は見ようとする。それはときに我々にも見える。森のなかでは死者と生者が平然と居ならび、ともに歌うのが見える。幼いまあやの話し相手である少年も、ときに画面にちゃっかりと映り込んでいる。佐々木健太は見えないものを平然と画面に連れもどす。その軽やかな足取りは、いちどは目を瞑ったことのある者だけがなしうる身振りなのだろう。鏡に背をむけるマーフの背中は、確実に彼方からの音楽を受けとめる。絶望を請け負ったこどもたちが、もはや見えなくなった者たちと、天国ではなく地上で生きていけるように、私たちの音楽は鳴り響く。光は闇を照らす。notre musiqueのこどもたち———早川由真(映画研究者)

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二つの家。一つは、町中にあるらしい。もう一つは森の中にあるようだ。町中の家には、父親と再婚相手の母親とその幼い娘、そして最初の母親の娘。娘は両親に反発しているようだ。マーフ、まあやという娘の名前は、ここが日本じゃないみたいだ。娘二人が訪れる森の家に住むのは猟師の男二人。年配の男は若い方の叔父らしい。そして、熱気球の設計をするその飛行家がゴーグルをつけた姿は、まるで『紅の豚』(宮崎駿)から抜け出てきたようだ。しかし、そうしたことは徐々に明らかにされる。つまり、草原を歩く女性のロング・ショットや、古い家を訪れた子どもたち等、冒頭近くで放り出されたショットの時制は曖昧なまま進行するのである。やがて四人と二人の家族の構図は反転する。娘二人が脱出して、森の男の家で過ごすからである。分断してしか捉えられなかった町中の家族に対して、猟の獲物の肉料理を食べる四人の疑似家族は調和した空間として描かれる。だが、家の空間の対比にも増して重要なのは、森の空間だろう。『ミュジックのこどもたち』では、変化する草原や森の表情を定着させているところに大きな魅力がある。それは精霊たちが踊り、器楽を奏でる祝祭的な場になり、娘が亡くなった母親と会話を交わす黄泉の国にもなる。そう、これは寓話である。しかし、映画としての問題は、監督の佐々木健太が、そうした物語やそれを可能とする映画というメディア自体への疑念を通して、この作品を成立させようとしていることである。前述した物語の不透明さもそうだし、演技前の時間やカット尻のカブリ(この作品は一部35mmフィルムで撮影されている)、シーンを極端に圧縮し飛ばす等の編集に現れている。この作品の破天荒なまでの晦渋さは、そうした矛盾の積み重ねによっている。果たして擬似家族は気球で飛び立ったのか?———筒井武文

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想いが転がってゆく、そんな時間の流れを感じた作品だった。風景、移動、表情、言葉…、印象的な細部を挙げていけばきりがないが、この映画が投げかけてくるものは、それらが何かの総合体に構築されるものではなく、ただ散らばった小石のように、時々かさなり、時々はじける。音楽も同じで、状況の説明でも心情吐露でもなく、ただ唐突にメロディがある。実は不幸な家を出た赤ずきんが寂しい狩人たちに出会って、たぶん何も始まらない。ただ想いだけが、ぽつりぽつりと、落ちて、転がってゆくような世界。メルヘン未満、でも実はそれが映画というものなのかもしれない———渋谷哲也(ドイツ映画研究)

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なんだこれ…すごすぎる… 11期で清原惟よりヤバい奴がいたとは…。

台所での振り返り動作でめちゃくちゃ短いジャンプカットみたいな編集をする。序盤の切り返し、明るい部屋に白い壁と白いシャツを着た男→暗い部屋と女が映され(明暗のコントラスト)、さらに次のカットでクローズアップされる。30分辺り、男と女が歩きながら話していて、それを横移動の手持ちカメラで撮り、次のショットで画面の"感じ"が変わり、切り返しの予兆を感じさせるが、切り返さない。明らかにカメラワークと編集でサスペンスを作り出していて驚嘆。夜の森で手を掴む所の編集もすごい(母親も娘も赤い服)。途中途中ぼやけた謎のショットが挿入されてその度に興奮。

そんでラストの気球…すごすぎる……映画がごく稀に起こす奇跡……世界ありがとう、お母さん産んでくれてありがとう、みんな生きててくれてありがとう、監督この映画を撮ってくれてありがとう状態……………こういう映画に出会うために生きている…………
su
3.0
ファンタジックな世界観なのか、現実なのか、戸惑ったけど、中盤からは面白く観れました。

低予算ながら現代世界でどうファンタジックな世界を作るのか、料理や小/大道具やロケハンや台詞など試行錯誤を重ねたんだろうなぁというのが見て取れて好感が持てました。

『ミュジックのこどもたち』に似ている作品

最も無害で、あまりにも攻撃的

製作国・地域:

上映時間:

40分
3.3

あらすじ

高校3年生の夏帆は制服のスカートを着た自分の姿を見ることにとうとう耐えられなくなっていた。静かな怒りを抱えたまま過ごす、夏の半ばの5日間。夏帆は別荘を売る準備のために、親と共に山梨へと向か…

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