朱音

ラブレスの朱音のネタバレレビュー・内容・結末

ラブレス(2017年製作の映画)
4.0

このレビューはネタバレを含みます

離婚寸前の冷え切った夫婦と、そんな両親に見捨てられた子供が失踪し、行方不明になるというこの物語を通じて、アンドレイ・スビャギンツェフ監督は、利己保身と他者への無関心が、やがてはコミュニティと、そして自らの幸福をも破滅させるという様を、極めて冷徹な視点で端正に描いてみせた。

子供の失踪という事件に直面したことで、両親がそれぞれ自らの行いを省みて、悔い改めるというドラマはこれまで数多く見てきたが、本作で描かれる夫婦にはそのような場面がひとつもない。
というよりこの映画で描かれる登場人物たちには葛藤がない。
視線を交えず、言葉を交わさず、思いを馳せず、ただひたすらに自己憐憫の欲求とエゴイズムをぶつけ合っているばかりである。
その対象が幼い子供であったとしても容赦がない。
不倫相手の元から朝な夕な帰ってきては、口汚く罵りあう様は実に醜悪なものだが、修繕不可能な人間関係の末期を如実に再現していると言えよう。
こんな環境に日々晒され続けているアレクセイの心情を慮ると胸が抉られんばかりだが、それが極に達するのが、離婚後の2人のそれぞれの生活に彼の存在が不要であるという事実を突き付けられた、トイレでの無言の慟哭シーンのあまりの惨たらしさは強烈に目に焼き付いている。
これをただ胸糞と一瞥するのは容易いが、しかしこのドラマは非常に卑近で実在感のあるキャラクターと、自然でリアリティのある会話、そして誰の心情にも寄り添わない客観的でドライな演出によって、この上ない信憑性をもたらしており、それはまるで私たちの現実と地続きになっている、それこそ隣人のドラマとすら錯覚させられるほどの近似性を感じる。

ジェーニャの母親の描写によって、終わりのない負の連鎖のようなものが脈々と受け継がれてきた事が示唆されると、帰りの車中で口喧嘩の勢いに任せてジェーニャはこの結婚生活の裏にあった自身の心情を吐露する。
もうね、絶句する。こんなことパートナーに言われたら、私だったらもう生きるのが嫌になってしまいそうだ。

アレクセイと、彼の失踪は謂わば舞台装置のようなものであるが、この物語では失踪してから最後まで不在のまま終わる。
遺体安置所で対面したその亡骸がアレクセイ本人ではないと否定するシークエンスではいくつかの異なる解釈をする事も出来るだろう。
例えばアレクセイが死んだという事実を受け入れられず、別人だと思い込もうとしている、とか。
そして観客が無意識の内にドラマに求めるもっともらしい「答え」や「結末」もまた本作では描かれない。
正確な安否も、死因も、行方も、動機も、心情も何もかもが不明のまま物語が終わり、映画の冒頭で彼が戯れに頭上の木枝に放り投げて、ぶら下がったままのリボンのついた棒きれが暗示する通り、風化し、誰にも気付かれないまま忘れ去られるのだろう。

事件のあと、ボリスとジェーニャはそれぞれ新しい家庭生活をスタートさせるが、あんな事があってもなお、彼らは利己的で無関心であるその在り方を改めようとはしない。
それぞれがそれぞれにまた同じ事を繰り返すだろう。

このラストの底知れない不気味さ、空虚感が凄まじい。


カーラジオから流れるマヤ歴の終末黙示録の件や、ラストにTVに映されるウクライナ内戦勃発のニュースなど、それらのシーン自体は印象的であるが、いまいちそのメタファーが掴みきれない。
TVの向こう側で起こっている出来事をスマホ片手にぼんやり見ているという構図を描きたかったのかもしれない。
これらに関してはスビャギンツェフ監督の過去のフィルモグラフィーから表現の方向性を拾ってゆく他ないだろう。

子供の失踪事件に警察があまりに無関心なのも気になる。民間の捜索隊に丸投げってなんだそりゃ?
ロシアでは普通なのだろうか…。
その民間の捜索隊といえばまるで軍隊の様に規律と指揮系統がしっかりしていて、黙々と捜索任務に携わるその姿は、本作に描かれるたくさんのダメな大人たちの中にあっては崇高に感じられる。
実際そういった作為は対比としてあるのだろう、森の中での捜索シーン、子供の名前を呼ぶ掛け声など、どこか殉教的な美意識を感じさせる。

構図の美しいショットが多く、広い空間を引きで捉えた中に人物同士の距離感を表現した絵作り、寒色が多用され、寒冷地のロケーションと相まって、キンと冷えた空気感が全編に張り詰めている。
巧みなフレ―ミングと豊かな暗喩表現は詩的で雄弁、この映画をより端正にしている。
朱音

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