朱音

悪女/AKUJOの朱音のネタバレレビュー・内容・結末

悪女/AKUJO(2017年製作の映画)
3.8

このレビューはネタバレを含みます

逃れられない宿業の果てに修羅へと堕ちてゆく女。
新鮮味に溢れたクレイジーなアクション表現に度肝を抜かれる韓国ノワールの良作。

先ず冒頭から50人ものヤクザを相手に7分間の疑似ワンカット・アクションが繰り広げられ、アドレナリンが一気に急上昇。一人称視点での狭い廊下でのハンドガンやナイフを使ったスピーディーな攻防は、FPSゲームを思わせるが、見せ方のアイディアが豊富で瞬きするのが惜しくなるほど刹那の緊張感に溢れている。
一連のアクションの区切りが適切なタイミングで次のフェーズに移ってゆくので長尺な戦闘シークエンスに飽きる事がない。
例えば冒頭からずっと一人称視点で続いていたカットが、鏡を使ったワンアクション(ここで初めて観客は主人公の顔を視認出来る)を挟んでそのままシームレスに客観視点に切り替わる。主演のキム・オクビンの体技のキレが鮮やかな格闘シークエンスから再び唐突に一人称視点に戻り、そのまま窓をぶち破ってその視点のまま階下に落下するという、いったいどうやって撮影したのか正気を疑うような離れ業を次々と繰り出してくる、素晴らしい映像技術の表現には驚くばかりだ。

血糊や弾着、人体損壊といった暴力描写の容赦の無さも韓国ノワールならではのえげつなさでこれまたテンションが上がる!もちろん観る人を選ぶのは言うまでもないが、こういった表現に手を抜かないからこそアクション・シーンには常に死と隣り合わせであるという緊迫感が伝わってくる。

一方で基本的にリアリティのラインは低めで外連味を追求した作風であり、またPOVや疑似ワンカットを多用した演出から、人と人、ステージ上のギミック、間合いや空間を把握させ、力の作用が及ぶ方向や重力などをイメージさせるカット割りなどの演出は場面場面によりブレがある。ただ、情報過多で混み入りがちなPOV技法を用いられた作品の中では、本作はかなり見易い工夫がなされているなと感じた。フェーズ移行にそって適度に視点を切り替えてもいるため画面酔いする事もなかった。
大まかなストーリーラインや、視覚的またはキャラクターメイクなどのエッセンス、クエンティン・タランティーノ監督の『キル・ビル』、リュック・ベッソン監督の『ニキータ』などを彷彿とさせる作風からも、本作においてはリアリズムよりもむしろ何でもありな方向性と見るべきだろう。
中盤のバイクによるチェイスシーンなどまさに『キル・ビル』のそれで、逃げた主人公を追う為、黒服の男たちがバイクに跨る、その前に日本刀を抜いてみせるなど、オマージュというよりこれがやりたくて仕方ないんだろうというチョン・ビョンギル監督の遊び心が伝わってきてついニヤリとしてしまう。
このバイク・チェイスやラストのアジト襲撃からのバス追跡(ここでも『デス・プルーフ』を思わせる場面があって、うぉぉ!やってくれるなぁ!と)、車内での攻防に至る本作におけるアクション・シークエンスはとにかく怒涛のアイディアと縦横無尽のカメラワーク、演者たちの見事な体技によって頭ひとつ抜けた仕上がりで、新鮮なアクション映画を求めるならば本作は絶対に観るべきだと私は思う。


と、ここまでアクションに関する事柄のみを褒めてきたが、本作のストーリーテリングは些か不親切であると言える。
主人公スクヒの辿る無間地獄を作り出す為の物語はやや入り組んでいるが、本作はさらに時間軸を交錯させている事で混乱を招いている。この構成は動的なテンポ感を生み出すのには一役買っていると言えなくもないが、如何せん各キャラクターを認知させ、感情移入を促すという事にとってはマイナスに働いている。
とりわけ序盤は、冒頭から一人称視点で碌に主人公の顔すら認識出来ていないにも関わらず、整形手術や、作中内での時間経過によって髪型などが変化した姿と、過去の変化する以前の姿とが交互に描かれるため、韓国映画をある程度見慣れている人でなければ見失ってしまうことだろう。
主人公は名前も変わってしまうしね。当然見続けていればそれぞれのキャラクターの顔と名前は定着してゆくが、スクヒと死別したはずのジュンサンが思わぬ所で再開するくだりは、正直私も一瞬分からなかった。
本来ショッキングなシーンのはずなんだろうけど、スクヒのあの瞬間の驚きを観客として共有出来なかったのは寂しいところだ。
また物語上の問題として、ジュンサンとの間にある絆を描き損ねているように感じる。そこが不足してしまうとジュンサンのスクヒに対する狂気的な執着と、スクヒの苦しみ哀しみがだいぶ薄れてしまうのは致命的だ。どう考えても中盤に描かれるヒョンスとの仮面的な純愛ドラマとの批准がおかしいように思える。そんなヒョンスが最後に事切れる間際に彼女の事を偽名である「ヨンス」ではなく「スクヒ」と呼んだのは、真なる愛の告白をさり気なく感じさせ思わずグッときてしまったのだが。それはさておき。

私が思うに、この物語の骨子というか、要点は「2人のメンター的存在によってスクヒが修羅(タイトルに倣うのなら悪女)として覚醒してゆく」無間地獄とその哀切を描いた物語であり、ここでいうメンターとはジュンサンと、そしてキム・ソヒョン演じるスクヒの上官、クォン幹部である。

この物語においてそれ以外の存在は言わば舞台装置のような役割であるため、本来はこの2人のキャラクターとの関係性をこそがっちりと描くべきなのだと私は思うのだが如何だろうか?

本作のキャスティングはとても素晴らしく、またそれぞれの役者陣の演技や佇まいといった存在感も良かっただけに、この構成と、ドラマ描写のポイントのズレが非常に勿体なく感じられてしまう。
スクヒを演じたキム・オクビンは周到なトレーニング、武器の扱いなどの訓練を経て本作のアクション・シーンの約9割をスタントなしで演じられたのだとか!銃やナイフを扱う手捌きの良さ、身体のキレ、そしてなにより殺しを生業とする修羅の世界に生きる者を表現した面構え、哀感、どれをとっても素晴らしく、他の作品でも要注目に値する存在となった。
朱音

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