小

ジョニーは行方不明/台北暮色の小のレビュー・感想・評価

3.5
台北でひとり暮らし、「ジョニーはそこにいますか?」という間違い電話を何度も受ける若い女性シュー、車で生活する中年男のフォン、人と交われない少年リー。都市で生活する人びとの孤独を描く。

途中、色々あるのだけれど、なんともならず、何も起こっていないように感じる。美しいけれど、どういうこと?と考えてしまうようなシーンもあり、つい意識が…、と言い訳。

で、監督の意見を聞こうとググってみると次のようなインタビューがあった。
(http://ginmaku-kanwa.com/entry/%E7%AC%AC%EF%BC%96%EF%BC%95%EF%BC%90%E5%9B%9E-%E3%80%8C%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%81%AF%E8%A1%8C%E6%96%B9%E4%B8%8D%E6%98%8E%E3%80%8D%E3%81%AE%E3%83%9B%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B7/)

<「この映画は物語を順に語ろうという意図はなく、あるムードを撮ろうとしたんです。日常生活をリアルでありながら美しく撮るということが狙いでした」>

<--私の受け止め方ですが、何が起きようと人は何事もなかったように淡々と暮らしていく。そういうことを描こうとしたのかなと思いました。(インタビュアー)

「その通りです。人間というのは日常の循環というのがとても大事で、どういう目にあったとしてもそこに戻ってくる。例えばこの映画のラストでリー青年がエンドクレジットの後にまたワンシーン出てきますよね。あのシーンで彼がまた日常の生活に戻ってソファにもたれているというところ。あれも彼の日常に戻ったということを表現しています」>

なるほど、自分はこういう世界観がすっと入ってこないんだという気がした。思い出すのが濱口竜介監督の『寝ても覚めても』。濱口監督はパンフレットで次のように書いている。

<震災は「今日は、まったく昨日と違う日である」という事実を示しました。それを真摯に受け取ればもはや私たちは「日常」という感覚を持つこと自体不可能になるはずでした。にもかかわらず、日本の社会全体が「昨日と今日はだいたい同じ日で、明日もきっと同じような日が来る」と、つまり「日常」は続いているという虚構を相も変わらず強弁しています。おそらく誰も「日常」のない世界に耐えられないからでしょう。そもそも「日常」と「非日常」をはっきり隔てることができず、明日どころか次の瞬間すらどうなるかわからないような生を、果たして人は生き得るものでしょうか。>

<『寝ても覚めても』の中の恋人たちは、恋すること・愛することを通じて、日常/非日常の境が崩壊したあとの「次の瞬間何が起こるかわからない」過酷な生へと、決然と踏み出していきます。>

生とは何なのか。<どういう目にあったとしてもそこ(日常)に戻ってくる>ものなのか、<「日常」と「非日常」をはっきり隔てることができず、明日どころか次の瞬間すらどうなるかわからない>ものなのか。

震災を経験した自分は、人はいつ死ぬかわからないし、生きていたとしても昨日と同じ日常が続くとは限らないということを強く感じた気がする。人知を超えた大津波、原発事故による放射能汚染。自分は運良く直接的にはそのどちらの被害にもあわずにすんだけれど、ニュース映像を見ているだけでも他人事とは思えず、明日は我が身と戦慄した。

もっとも、<どういう目にあったとしてもそこに戻ってくる>と言われても共感できない一方で<「次の瞬間何が起こるかわからない」過酷な生へと、決然と踏み出してい>く覚悟があるかと聞かれれば「はい、あります」と断言できない自分は…、ちょっと牧伸二な気分。

●物語:3.0
・世界観にイマイチ入れず。でも何だかんだで考えさせられてしまった。

●他 :4.0
・雰囲気がイイっす。
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