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オペラ座 血の喝采 完全版のhorahukiのレビュー・感想・評価

オペラ座 血の喝采 完全版(1988年製作の映画)
4.5
カラスは必ず復讐する…

美人オペラ女優の主人公を柱に縛り付けるだけでなく、針付きテープで絶対に瞬きできないように固定してまで自分の殺人を見せつける!そんな「美女にオレの殺人を見てほしい!」という犯人のキモすぎる欲望に毎度付き合わされる主人公が可哀想になるアルジェント製ジャーロ。

しかも殺人を見せつけるだけ見せつけて、「お前は淫乱な女だ」とか不快指数MAXな言葉を一方的に残して去っていくというキチ◯イっぷり。口塞がれてるから反論もできないし、そもそもお前に言われたくねーよ感ありすぎて笑うしかない🤣

ジャーロ映画は犯人探しを目的としているわけではなく、精神分析を行う対象としての悪夢をクライマックスまで持続させるために犯人を隠しているに過ぎないというのはアルジェントの有名な言葉。そういう意味で、本作もまさにアルジェントの志すジャーロを体現した作品だと言えると思う。

前述の「淫乱」は本作において非常に重要なワード。主人公は自身の淫乱を何度となく否定し、性行為にも踏み出せず、いざとなると直前に心的なストッパーが働く。その奥底には明確に否定したい母親の影があり、その母親を自身に押し付ける存在である犯人を嫌悪する。その「母親の否定」は自身の心内に巣食う母親的一面を自覚しつつも抗おうとする心的リアクション。この湧き上がる「母親=淫乱」と、それを抑え込み否定しようとする内面の葛藤を本作は精神分析的に描いている。

だから本作の主人公と犯人の関係性は、厳密には違えども『ハロウィン』におけるローリーとマイケルに近いものを見出せる。本作の犯人は自身の否定したい一面を象徴するペルソナ的側面を体現しており、親から継承した・押し付けられたそのペルソナを恐れ、臭いものに蓋をするかのように見て見ぬふりしてきた自分から前進し、親による拘束を解き、真なる自己を解放する姿を描いている。

そう考えると、本作は「親の呪縛からの魔女的解放」を扱った作品だと言うことができ、『サスペリア』を反復しているのが良くわかる。また本作製作直前にアルジェントの父親が他界しているというのも意味深にうつる。本作以降アルジェントが低迷してしまうこともまたそのことと関連づけて考えてしまう。

冒頭、カラスが気に入らずに主演を降りる大女優が、車に轢かれるまでのカメラ移動からして既に素晴らしい。女優のセリフだけでなく、その場にいる全てのキャラクターを用いてカメラを主体化させるうまさ。ちなみにこの一度も顔が映らない大女優を演じてるのはダリアニコロディ。

そして格子越しのカットを挟んでの窃視的視点が場の空気感をスクリーンの内外でズラし、悲鳴により同時間性を強調したクロスカッティング、バーヴァ『白い肌に狂う鞭』のような予兆の侵入、『血みどろの入江』→『透明人間』へと移行する不在の実在性とかとにかく見どころが多すぎる。

極め付けは、ダリアニコロディへの覗き穴銃撃の迫力と劇場内を回転しながら降りていくダイナミックなカメラ。ニコロディさん、流石にあのシーンはアルジェントに殺されると思って怖かったらしい🤣

偶然にも男が犯人なので、3月は男殺人鬼①。これミステリーだけど、ずっと男が犯人だってことを描き続けて最後までブレないから大丈夫でしょう。どーでも良いけど、本作は『フェノミナ』と同一世界線の物語らしい。まさかのアルジェントユニバース!!→同一世界線ではなく、登場してるキャラが『フェノミナ』撮影してるっていう構造のようです!
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