140字プロレス鶴見辰吾ジラ

パラサイト 半地下の家族の140字プロレス鶴見辰吾ジラのレビュー・感想・評価

パラサイト 半地下の家族(2019年製作の映画)
4.7
【コリアンビューティー】

比類なきスリルと衝撃!
先行上映に行って参りました。

TOHOシネマズ日比谷。
ここで見たことの価値。
劇場を出た後に見た光景。
私は突きつけられた…

「インセプション」
「ドラえもん」
「ジョーカー」
「アス」
「ガス灯」
「天気の子」
「グッドウィルハンティング」

息ができなかったらのか?
息もできなかったのか?

教えてくれ…
夢なのか?
現実なのか?
走馬灯なのか?
掴んだのか?
jokeなのか?

時代は本質へと向かっている。多くの映画監督がその状況を物語にしているように思える。右か左かではない上か下かの物語を。

計画は現実に傷つけられ無形核となっていく。夢を捨てた世代。まだ捨てれば本質的な苦しみを味わうことなく核を守れるかと思っていても、人の本質に踏み込んだ侮辱が人が人たる一線を超えさせる。夢をよりも目の前の生活に飛びついた者は、困窮的に与えられた夢に最後の熱情を託す。

ポン・ジュノが上映前にネタバレ厳禁のメッセージを観客に伝える。これは確かに“大ドンデン返し“の衝撃映画ではない。しかしセリフやシークエンスが韻を踏み、物語を積み上げていきより強固なモノへと変貌させていく。物や清潔感に溢れることの豊かさにナイフを突き立てるのだ。ワンシークエンス、ワンシークエンスが韻を踏み、散りばめられた伏線を回収していく様を見逃しても聞き逃してもいけない。息をつくことさえ阻まれる映画としての強度をポン・ジュノは演出し、ソン・ガンホ含めた役者の演技が映画的な重力を生み出す。

狂気?狂気って何だよ?

ウヒャヒャヒャとか
ウキャキャキャとか
叫んでれば狂気が出るわけではない。積み上げられたセリフ、絵、演出が強固になって、あのときの栄光、可能性、夢ありし日から半地下に下った者たちのディテールを構成していく。ストリート育ちがマイフェアレディになるまでの時間を要さない素養の部分と決して半地下に下ったことで拭えない本質とともに。

人が人たる最後の一線を超えぬよう生きていた者に突きつけられる言葉や行動提示が悉く胸を刺す。

象徴的なインディアンのイメージ。教育や努力や夢、目標を追いかけられたあの日が再び青春のように返り咲いた位置エネルギーの頂点から、招き入れることで後退させられる恐怖は日常にも遠く砂漠や大都市にも散りばめられている。



私は皆からキモいと疎まれていることだろうと不安を抱えながら職場で社会に適合しようとパニック発作や何やら抑制しようとしているが、それでも聞こえてくるのは私を拒絶するいくつかの言葉だ。何とかキモいまでは耐えるが、私の吃音をバカにするなら地獄へ落ちろ!と思う。俺の吃音をバカにしたら××す!

本題に戻るが本作は比類なき感覚が味わえる。それは映画においてでも、私たちの生活においてでも…

本質は?夢は?
手取り16万の幸せはあるか?  

夢が最後の熱情は?

まだ抗う、足掻く価値は?

ここから光へ上がるか?
階段を下って闇に入るか?

選択を迫られる。

挑戦か?世界への?

ペイフォワードか?
ファイトクラブか?

横アングルから上下を映す階段のシークエンスが何より印象的だった。