平野レミゼラブル

王の願い ハングルの始まりの平野レミゼラブルのレビュー・感想・評価

3.6
【星を追ったおじさんは、今度は強情なおじさんとぶつかりながら叡智(ハングル)を拓き、民を導く】
昨年公開された『世宗大王 星を追う者たち』と同様に韓国の歴史上、護国の英雄・李舜臣と並び敬愛される国民的英雄にしてキング・オブ・名君である世宗大王を描いた作品です。本作では諸説ある「ハングルの文字の開発」の中から「世宗大王と僧侶シンミの共同製作説」を採用して描いた歴史映画となっています。
『星を追う者たち』とは題材にした人物が同じだけで、全く繋がりのない作品ではあるんですが、実質的な続編にして後日譚と言っても過言ではないくらいに綺麗に繋がる作品でもあります。というのも、『星を追う者たち』で描かれたのは世宗大王の広大な偉業のうち前半生のみでして、その後半生で果たした偉業「ハングル文字の開発」については触れられはするものの中途半端なまま終わってしまったからです。
これに関しては『星を~』の方でも書きましたが、世宗大王の事業があまりに広範すぎるので仕方がない。そのため、この後半生の偉業を描いたという本作の公開を楽しみにしていたのですが、翌年公開というのは中々タイミングが良くて素晴らしいですね。世宗大王はハン・ソッキュからソン・ガンホに変わってしまいましたが、思うように動かない大臣たちに辟易したり、遠慮なく意見をぶつけてくる部下に呆れたりと割と振り回される役回りなのも共通でそこら辺も綺麗に繋がっているのがイイ。

真夏に黒衣を着て神に祈りを捧げる旧時代的な雨乞いを王の務めとしてやらされている冒頭からして、世宗大王が苦労性というのは描かれています。世宗大王はバリバリの科学贔屓でして、それこそ『星を~』のバディであるチャン・ヨンシルに「測雨器」を発明させるくらい気象学にも通じている人物。そんな彼が無意味だとわかりきっている苦行を、旧態依然とした大臣たちに強いられているという逆転の構造。冒頭で世宗大王の合理的かつ近代的な思考と、映画で立ち向かうべき敵の姿を明確にさせてくるのが巧いです。
世宗大王には韓国独自の簡易な言語を開発し、広く万民に浸透させて国力を向上させるという壮大な目標を持っていたのですが、これも大臣たちに頑なに反対されている。表向きは立場が上な大国・明の顔色を窺って…とのことですが(『星を~』では実際にこれが最大の理由として開発を阻んでいた)、その実は民衆に下手に知識をつけられると面倒という支配者層としてのエゴ故です。

他にも課題は山積みで、日本からやってきた通信使の僧侶達は韓国では儒教贔屓であることと、先帝との間で約束したことを理由に国宝である仏典『大蔵経』の原本を要求してくる始末。
本作は言語をテーマにしているからか、中国語・日本語といった外国語も話されるのですが、この場面で僧侶たちが話す日本語が言葉遣いから発音まで含めてとても綺麗なことに驚かされます。これまで観てきた映画だと、どうしても韓国特有のイントネーションが入って上手く聞き取ることも出来なかったのに!!ちゃんと日本人を起用したんですかね?
どちらにしろ、テーマに真摯で素晴らしいんですが、肝心の僧侶達が口に出す日本語というのが「大蔵経寄越せー!先帝との約束守れー!」というクレクレお経なことには微妙な顔になってしまう。いくら先帝と約束して、大蔵経持ち帰らなきゃ死ぬ覚悟っつっても、物乞い同然の態度なんだもんなァ……

そんな世宗大王の頭痛のタネの一つであった日本僧侶に喝を入れた人こそ、韓国の僧侶シンミ。彼は需が尊ばれ、廃仏政策が推し進められる中でも頑なに仏教の大切さを説き続けている頑固者。そんな彼からすると「自分から行動も起こさず、何が命懸けか!」という想いでいっぱいなのでしょう。日本の僧侶たちに既存の『大蔵経』に頼らない新たな仏の道に開眼するよう諭して、その場を見事に収めます。
ユニークなのが、シンミ一向がこのクレクレお経に対抗して披露したサンスクリットお経。シンミ一行の中でも特に若い僧侶が軽やかに唱え始めるそのお経は、まるでヒップホップか何かのようでとてもリズミカル。耳障りの良い音が心地よく、また聞きなれない言語であるが故に新鮮な気持ちで楽しむことが出来ました。
同じようにサンスクリットのリリックに魅せられ、また言語についても広範な知識を持っているシンミに惹かれた世宗大王は新たな言語開発に彼らを引き込むことを目論みます。

世宗大王は王政として廃仏を推し進める側なため、本来であればこの2人は対立軸にあるというのが興味深い。そうは言っても、世宗大王自身が仏教に何か思うところはなく、むしろ彼の妻である昭憲皇后は“異端”の仏教徒なため、思っていた以上には対立しません。
むしろ不安になるのは頑固者のシンミの方ですが、彼は彼で言語開発で国家の中枢に関わることで仏教を再び国に栄えさせようという野心がアリアリだったという。なんだかんだ根源にある我欲の強さは共通だったということで、存外似たもの同士の邂逅でもあったのです。

そんな言語作りパートはシンミ一行のスパルタぶりと、割とノンキしてた世宗大王一行の掛け合いが一々軽妙で面白い。一切の妥協を許さないシンミにヒーヒー言いながらも食らいついていく世宗大王の子息達や、ムードメーカーになる若い僧が良い味を出しています。
結構ユーモアもたっぷり挿入していまして、簡易な文字の開発のため色々な記号を書いてみようって挑戦をする時に隣の人の記号を真似して左右逆に書くだけの横着をしたり、「一切口を利かない修行」をしていた僧が発声方法の伝達が上手くいってないことをもどかしく思ってあっさり禁を破ったりする部分なんかは笑えます。
頑固一徹と思えたシンミもオモシロ空間に馴染んでいったのか、本来禁制の筈の肉食を「文字作りにはエネルギーも必要」として解禁し、皆でがっつくくらいにはゆるやかになっていきます。
これら全てに共通することはやはりモノ創りの難しさと面白さであり、文字がいかに大事なものを示していくと同時に、それを創る困難さをも巧く伝えて、知的好奇心をも満たしてくれます。

そして、そんな悦びを感じる心は身分の差関係なく皆が持つもの。
世宗、シンミそれぞれの陣営が同じ事業に取り組み、同じように一喜一憂する楽しさも『星を追う者たち』で描かれた輝きと同様のものでした。
そういえば『星を~』で取り組んでいた天体観測と星座の配置が、今回の文字作りの基盤になっていたのもアツかったですね。

もちろん全てが順風満帆なワケではなく、世宗大王は反対する大臣たちや、根っこの部分で仏教徒であるからこそわかり切れない皇后との隔絶、そして我があまりに強すぎるが故に起きてしまうシンミとの衝突が終盤にかけて問題点として次々提示されていく。
志は同じだとしても、どうしても立場が違うが故に起きてしまう艱難辛苦に無理がないため、ドラマとしても上出来です。
ただ、それでもやはり文字創りオンリーで物語を構成しているのは流石に地味ではあります。適度にユーモアも交えているため、退屈こそしなかったんですけどね。それでも、ちょっとでも言語や歴史に興味ないと観賞が厳しい側面はあるやも。

しかし、何度もしつこく言っていますが『星を追う者たち』と併せて観ると、見事なまでに補完し合える完璧な相互作用を発揮しますので、そちらを観て世宗大王やおじさん達の絆に絆された人は、是非とも観ることをオススメします。ヨンシルとはまた別の濃ゆいおじさん同士の絆や頑張りが拝めるんだぜ!