朱音

コリーニ事件の朱音のネタバレレビュー・内容・結末

コリーニ事件(2019年製作の映画)
4.0

このレビューはネタバレを含みます

本作の原作、『コリーニ事件』を執筆したのはドイツを代表する小説家フェルディナント・フォン・シーラッハ。
ボンの大学で学び、ケルンでの研修を経て1994年よりベルリンで刑事事件弁護士として活動。元東ドイツ政治局員ギュンター・シャボフスキーや、ドイツ連邦情報局工作員ノルベルト・ユレツコの弁護に携わり、ドイツでも屈指の弁護士と見なされている。

また彼の祖父はナチ党全国青少年指導者バルドゥール・フォン・シーラッハ。ヒトラーユーゲント指導者としてドイツの青少年を国家社会主義思想の下に指導、育成した。後にウィーンの総督兼帝国大管区指導者となり、ウィーンのユダヤ人の追放に関与した。戦後ニュルンベルク裁判の被告人の一人となり、ユダヤ人追放の廉で人道に対する罪で有罪となり、禁固20年の刑に処せられた。

こうしたバックストーリーが本作の執筆に影響を及ぼしたのは何となく想像がつく。ここにはフェルディナント・フォン・シーラッハ氏の作家としてでも、弁護士としてでもない、他あろうドイツ人として本作にて、いま1度自国・ドイツの戦争犯罪に対して向き合おうという強い意志が感じられる。ラストの「君は君だ」という台詞にはこうした身内の過去に縛られずに、大切なのは過去の過ちを繰り返さないという強い意志を持つことなのだという想いが込められている。

ドイツ国民はこれまで、国が犯した罪に背を向けずに、省みてきたと言われている。だが本作で語られた"法律の落とし穴"がきっかけとなり、2012年にドイツ連邦法務省(当時)が省内に調査委員会を立ち上げたことからも、本作の発表がドイツという国家にとって、贖罪の歴史すらも歪ませかねない事件となったのは事実だ。本作にはドイツが過去の過ちのみならず、戦争犯罪を不問に伏す過去の法について、改めて向き合わせたことに意義がある。


第二次世界大戦時のイタリア。
第二次世界大戦において、ドイツ・イタリア・日本は枢軸国と呼ばれてまとめられているがこの国々が一致団結して何かと戦っていたわけではない。
特にイタリアは事情が違っていて、1943年7月24日、"イタリア王国"でクーデターが発生したことを発端に、体制は大きく崩壊。9月8日には"イタリア王国"は連合国との休戦協定締結を発表し、事実上の降伏。しかし、9月23日にはドイツに逃亡したムッソリーニを首班とする"イタリア社会共和国"が成立し、枢軸国として戦闘を続行していた。
つまり、"イタリア王国"はドイツの敵で、"イタリア社会共和国"はドイツの味方として二分されたのだ。

そのような状態の最中、イタリアにおける忌まわしいドイツの戦争犯罪が起きた。本作、『コリーニ事件』で描かれているのは、イタリアのモンテカティーニで起きた住民の虐殺。"イタリア王国"と戦闘するドイツ・ナチス軍は、
「そっちが攻撃してくるならこちらのイタリア社会共和国内のイタリア人を報復で殺害する」と脅し、実際に殺害を無慈悲に実行したのだ。これは一か所ではなく、イタリア各地で起こり、数万人が処刑されたと言われている。また殺人だけでなく略奪やレイプも発生したようだ。アルデアティーネ洞窟での大虐殺など有名な事件もあれば、小さな事件もあり、とにかく悲惨で目を覆いたくなる酷い歴史だ。

そんな殺戮に関与したナチスの親衛隊の人間がのうのうと戦後も普通に暮らしているものなのか、と思うかもしれないが、ナチスの大半はとくに罪にもならなかったことはドキュメンタリー『アウシュビッツの会計係』でも語られているとおりだ。

1945年には約80万人のSS隊がいて、そのうち現在まで10万人以上を捜査し、その中でも6200人が裁判にかけられ、殺人で有罪になったのはたったの124人。

これが実情なのだ。だから本作のハンス・マイヤーのような、過去に非道な行為をした元ナチスの人間は"普通に社会に溶け込んでいる"のだ。しかも本作でも示唆されている通り、過去のイメージを上書きするためにあえて善行を振りまいている人物もいる。もちろんそれが真摯な贖罪の意を込めて行っている人間も一定数居ることを否定はしない。


ドイツ国内においては常識かもしれないが、こうした歴史の事情を知らない人は多いはずだ。私もそのひとりである。
だが本作、『コリーニ事件』は更なる衝撃を暴露する。それこそドイツ国内をも震撼させるような事実。それが件の法律だ。


この作中でも問題として取り上げられる法律は「秩序違反法施行法」(EGOWiG:通称ドレーアー法)と呼ばれ、1968年に改定され、当時はそこまで話題にならずに密かに施行されたそうだ。そもそもな目的は交通違反のような軽微な犯罪を非犯罪化することにあったようだが、しかし、結果的に元ナチスの刑を軽くすることに繋がってゆく。
どうやらドイツではもともと、元ナチスの赦免を目指す動きがあったそうで、その際にはいろいろな人物が裏で活動していたらしい。その中には当然、元ナチス当事者もいて、法律関係の仕事をしている人もいた。要するに法律の専門知識を完全に自己の罪をもみ消すことに悪用するという、最悪の職業倫理違反をしていたことになる訳だ。

この「ドレーアー法」という法律の誕生の中心にいたのが、エドゥアルト・ドレーアーだ。ドレーアーは連邦司法省刑法部長であり、当時の業界に大きな力を持っていた。彼もまたナチスとの繋がりがあった過去があり、しかし色々なコネで潔白という扱いになり、何食わぬ顔で公務に復帰することが出来たそうである。

そしてこの「ドレーアー法」という法律のせいで作中簡単に説明されるとおり、謀殺罪に関しては幇助犯には通常の正犯に科される最高刑(終身刑)を科せないこと、最長でも15年の自由刑しか科せないこと、さらには公訴時効の期間は自動的に15年へと変更されてしまった。つまり元ナチスの幇助犯を訴追することは将来的に不可能になったということだ。


先に述べたように、この法律は当然既に見直されたのだが、恐ろしいのは法を施行する側の人間にこうした悪意が紛れ込んでいるという事実だ。こうした環境下においては、法律は市民を守るためのものではなく、一部の権力者の盾になるだけの存在になってしまう。法治国家というのは国民のための法律があるという前提条件で成り立つものであり、その法律が悪意で操作されているならそれはただのディストピアである。

本作、『コリーニ事件』はその危険性を過去に大きな罪を犯したドイツで再び静かに提示することで、いつまたあの時代に逆戻りするかもわからないのだという警告を発している。

それに、これは私たちの国、日本にとっても無縁なことではないはずだ。法律は何のためにあるものなのか。こうした作品群の意義は私たちひとりひとりに、法とは何か、法治国家とは何であるのか、正義が正義として機能しているのか、を問い掛けてくることに意味がある。


殺人事件の捜査が、いつの間にか歴史の闇の扉を開いてしまう作りは定型なものだが、本作には上記したような圧倒的な深みがある。
その上で法廷ミステリーとして、エンターテインメント性を確立しているのだから面白くない訳がない。主人公のライネン自身がトルコ系の血を引いている=マイノリティであることや、複雑な親子関係を絡め、さらに助手に起用するピザ屋のファンキーな店員も加わって"チームもの"のカタルシスまで用意してある。

原作と映画を比較してみると、まず主人公の出自が異なっている。原作では、主人公の父親は上流階級の資産家で、ライネンに弁護士事務所用のデスクをプレゼントしていたりと、親子関係はかなり良好に描かれている。対して映画版での父親は、書店を営むごく平凡な男で、ライネンの少年期に、彼と母を捨て家を出た人物に改変されているのだ。この改変により、父に捨てられたライネンにとってハンス・マイヤーが父親同然の存在だったことが際立ち、実の父が息子の仕事をサポートし関係を修復させていく展開も、本作に通底する"父と子の物語"というテーマを、より深みのあるものに仕上がっている。

また、原作でドイツ人女性だったライネンの母親は、映画版ではトルコ人女性に改変されている。劇中でライネンが「トルコ人!」とからかわれるシーンもあり、程度の差こそあれ、彼もコリーニと同じように迫害の受けていた社会的弱者であることが示される。そのため、下流階級出身の主人公が巨大な国家の闇に立ち向かうという、ドラマ性が増強されているのだ。

本作の中で最も大きな改変といえるのが、ハンス・マイヤーの遺族の公訴代理人のマッティンガーの描かれ方だ。原作では法治主義を重んじる普通の弁護士だったマッティンガーが、映画版ではドレーアー法の草案に関わった人物に改変されている。クライマックスのマッティンガーが証言台に立つ展開は映画版オリジナルのものだ。

映画版は、"父子の物語"に焦点を当てるために、コリーニが抱えるナチスへの遺恨が、父を殺されたことのみになっていたが、原作ではコリーニの過去の心的外傷がより深く描かれている。
マッティンガーの役割が改変されたことで、ドレーアー法の草案に関わったマッティンガーが過ちを認め、この法律の不条理性が炙り出される構造になっており、この法によりハンス・マイヤーを告発する機会を奪われたコリーニが、人生で唯一正義というものに触れた瞬間として、よりエモーショナルに演出されている。
朱音

朱音