平野レミゼラブル

ミセス・ノイズィの平野レミゼラブルのネタバレレビュー・内容・結末

ミセス・ノイズィ(2019年製作の映画)
4.3

このレビューはネタバレを含みます

【視野を広げるその一喝】
「騒音おばさん」というと本当に懐かしい。2005年のニュースやワイドショーを騒がせたおばさんで、布団をリズミカルに叩きながら「ひっこお―し!ひっこぉーし!!さっさとひっこぉーし!!」と喚き立てる姿には「コワ~…近寄らんとこ…」となると共に、どこか可笑しさすら感じられました。実際、当時はニコニコ動画すらないような環境でしたが、ネットでも面白素材として扱われ、数々のFlash動画等が作られるお祭り騒ぎに。
一方で、その騒ぎを批判する流れもでき、第三者が他人をおもちゃにすることを咎めたり、あるいは加害者を撮影してネットに公開した騒音の被害者をバッシングする動きにまで及びました。挙句「騒音おばさんの真実」なんていう眉唾モノのコピペまで出回り、騒音おばさんを過剰擁護する風潮も出来上がるという。
当時これを本気で信じている人が割といたりして、危なっかしいなと感じたのですが(騒音おばさんは傷害容疑で捕まっているように、実際クロではありましたし)、ここまで騒動が極まるともう何が真実かなんてわかるワケがなく、変に意見を言わない方が良いといった形に。
 
しかし、この事件を創作の題材にして「創作独自の真実」を作ることはできる。本作は15年前の事件を基に作られた「フィクション」です。騒音おばさんというある種飛び道具的な題材に反して真っ当に面白く、そして多面的に物事を見据えたドラマに仕立てているのが見事というほかない。
多面的に物事を見ているが故に被害者・加害者双方へのバランスが取れた作りで、事件当時よりも無責任に第三者が介入しやすく、より面白おかしく騒ぎ立てる風潮へと発展してしまったインターネット界隈への批判も織り込んだ社会派な映画となっています。そういう意味ではイーストウッドの爺さんの『リチャード・ジュエル』に近しく、昔の出来事だけど今だからこそやるべき映画でもあるという。胸糞さもあるけれど、ちゃんとエンタメしていて何より笑えて最後はちょっとほっこりする作りというのも共通で本当に良く出来ています。
 
 
本作の騒音おばさんこと若田美和子は主人公の小説家吉岡真紀が越してきたアパートの隣人。1作目のヒット以降振るわないスランプ状態、娘の菜子もやんちゃ盛りでストレスが溜まりながらも云々唸っている真紀にとっての美和子は明け方に布団をバンバン叩いているオバちゃんなのだから気が散って仕方ない。
静かにしてくれと抗議するも暖簾に腕押し。さらにある日、執筆にかまけて放っておいた菜子が行方不明に。血相を変えて探し回っているところに、菜子は美和子と共に帰ってくるという。一緒に遊んでいたと言う菜子を叱りつける真紀に対して、美和子は「子供をほったらかしにしてそれでも親か」と問い詰めます。真紀にとっては美和子の方が人の娘を連れだした不審者としか思えず、両者の間で不協和音が鳴り響きだしていきます。
 
本作の構成で面白いのは、やはり「真紀視点」と「美和子視点」に話を大きく分けて展開していること。
真紀視点では美和子は嫌がらせとしか思えない騒音を立てまくり、娘を攫うような真似をしながらも逆ギレする不審者でしかない。しかも、美和子の夫というのが定職にも就いてないようで、貧相かつボソボソ喋る不気味な感じ。2度目に菜子が行方不明になった時には美和子の家に行っていたようで、当の夫は「一緒に風呂に入った」と発言したことで不信感はマックスに。この時点では若田家は明確な加害者として観賞者の印象にも残ります。
 
しかし時を戻しての美和子視点に戻ると印象は一変。美和子の夫はどうやら精神を病んでいるらしく、朝虫が体を這う幻覚を見て目覚めて発狂。美和子は夫を落ち着かせるために、布団に這う幻の虫を叩いて掃っていた。これが早朝の布団叩きの真実。さらに仏壇に供えられた幼い息子の遺影。これによって、息子が幼くして死んだショックで夫は精神を病み、そして親に構って貰えず一人で遊ぶ菜子をことさら可愛がっていたということも判明します。
お風呂に入った発言にしても、菜子がいたずら書きをしていて体中を汚していたから拭いてあげたというのが真相。これは推測も入りますが、美和子が真紀を執拗に問い詰めたのは自身が目を離した時に息子が事故に遭って死んでしまったという経験も踏まえてかもしれません。
 
この事実によって、観賞者の価値観は大きく覆ります。美和子は多少強引なところはあるものの、哀しさを胸に秘めて常に子供に優しくある善人です。「多少強引」というのがポイントで、真紀が不振がるのも無理はない部分ってのは確かにあるんですよ。
例えば、パート先の農場で規格外の野菜が捨てられることを知った美和子はそれに反発して、八百屋にその野菜を売ってくれるように頼みこみに行く。立派な「もったいない精神」だし、その行動自体はよくわかりますが(精神を病んで社会からドロップアウトしてしまった夫を重ねているのもあるのでしょう)、残念ながら世間的な常識からは外れてしまっている。「私たち間違ってないよね…?正しく生きているよね…?」の言葉が悲痛ではあるんですが、辛辣な言い方をするなら、見ず知らずのおばちゃんが持ってきた野菜を売るという店側のリスクまで理解が及んでいない「想像力の欠如」があります。
 
その「想像力の欠如」っていうのが、本作最大の裏テーマとなっていまして、一番想像力が足りていないってのが小説家の真紀なんですよ。前述通り、美和子を騒音おばさんと思い込んでいたのは、真紀が第一印象からそのイメージを変えていなかったが為の想像力の欠如ゆえ。
観賞者には美和子の事情が明かされましたが、それを知らない真紀は美和子が加害者という意識を強めて、彼女をモチーフにした連載小説『ミセス・ノイズィ』を書いて暴走していきます。さらに勢いづいた真紀は布団叩きに対して、モップでチャンバラしたり、布団を落としたりで対抗。美和子も引かずラジカセでクラシックを大ボリュームで流し出したりとガキの喧嘩じみた対決に発展。この辺りはスラップスティックコメディの文脈で描かれていることもあって素直に笑えます。
好きなことだけして生きていくスタイルの真紀の従姉弟がその光景を動画に撮って流したり、それを炎上商法として売り出す出版社の後押しもあって(そこそこ名のある出版社がこんなリスキーなことするかは疑問だけど、真紀担当の編集が若手に変わったという布石でギリ成り立つ形にしていたのが巧い)小説は好評に。こんなやり方で大丈夫だろうかという疑問はありながらも、ブログに「実在の人物とは無関係」と書くだけで安心する辺りが真紀のどうしようもない程の想像力の足りなさの表れですね。なんというか、1作目以降ずっとスランプという説得力に溢れている。
 
しかし、この『ミセス・ノイズィ』騒動は冒頭で書いた現実の流れのように、ネット上で玩具にされ、祭りに発展。若田夫妻に実際に危害が及ばされるに至ります。そして、最悪なのがベランダ越しに菜子を気にかけていた夫の姿を「ロリコン親父」として拡散されてしまったこと。そのことを知った夫は飛び降り自殺を図ってしまいます。かろうじて一命は取りとめたものの、これを機に世論は一転して真紀へのバッシングへ。今度は真紀がネットとマスコミに晒され、追われることになります。この辺り、実際に起きた騒音おばさん騒動に関しての厭な部分というか、違和感を全て盛り込んでいて本当に描写が巧みです。
 
マスコミに張り付かれ、娘と一緒に家に帰ることすらままならなくなってしまった真紀。ある種、自業自得と言える部分もあるのですが、それにしたって執拗すぎるバッシングがえげつなく胸糞&可哀想にもなっていきます。騒音戦争で笑っていたあのノンキな雰囲気はもう戻らないのか…と言ったところで叫ぶのが被害者と見なされるようになった美和子。
彼女がTVカメラに向かって放つ「子供がいるのに何をしているんだ!!」という一喝がこの状況を一気にひっくり返す役割を持つのです。


正しさを持って一喝したことで苦境に追い込まれた女性が、正しさを持って一喝することで追い詰めた女性を救うという構図。
それは全国に流され、それを観た人々の認識は再び変わります。即ち、この争い自体が不毛でくだらない。何より罪なき子供が傷付いているというあってはならない状況。
美和子の正しさはやはり「子供を想うがため」に一貫しているのが格好良く、そして感動的です。
何より、この一喝は真紀の視野を広げる役割を果たしていたという。

子を想う美和子の叫びを聞き、真紀は己の視野の狭さを省みます。そして語られる美和子の身の上話を受け、真紀は涙を流しながら詫び、両者は和解に至ります。
さらに叫びの効果はそれだけでなく、真紀のスランプをも吹き飛ばします。1年後、越した先で真紀は『ミセス・ノイズィ』を心優しき隣人の物語として改稿し、美和子の下へと届けたのです。その物語は読者からの評判も上々。そして何より美和子も本を読みながら朗らかに笑ってくれた。
正直あれだけの騒ぎになった割には甘いというかぬるいというか、美和子の優しさに寄りかかった感じのラストではあります。ただまあ、実際に世の中これくらいの優しさで他者を尊重し合えれば良いなという願いも込められていますし、何より凄く綺麗に着地したのでね。素直に良かったと言えるラストじゃないでしょうか。


あと、一番やられたなァって思ったのが、この騒動を一番フラットな視点で眺めて真っ当な反応していた人物がキャバ嬢ってとこなんですよね。彼女が1作目以降の真紀の作品の登場人物に深みがないと言った時は「へーへー、意識高いですなー」と適当抜かしてるように思っていたんですが、これだけ旧版『ミセス・ノイズィ』が話題になった状態でも「小説を憂さ晴らしの道具にしか使えないなんて不愉快だし、本当に才能枯れちゃったんだなー」と冷静な批判をしており「あっ、この子が一番“理解”してんじゃん!!」とビックリ。
そして同時に、自分の中に「キャバ嬢が文学作品を真に理解しているわけがない」という“偏見”があったことに気付かされるんですよね。お前も「想像力が欠如してるぞ」と画面外からガツンと突き付けられたこの衝撃。この辺、本作の伝えたいメッセージを何より雄弁に伝えてくる仕組みで凄いです。

オススメ!!