朱音

返校 言葉が消えた日の朱音のネタバレレビュー・内容・結末

返校 言葉が消えた日(2019年製作の映画)
3.4

このレビューはネタバレを含みます

『返校』は、台湾のインディーズ・デベロッパであるRed Candle Gamesが2017年に発表したホラー・アドベンチャーゲームだ。呪われた学校に閉じ込められた少年・ウェイと少女・ファンが、徘徊する亡霊をかわしつつ、謎に迫っていく。

物語の舞台は1960年代の台湾。当時の台湾は、中国国民党による不当逮捕や厳しい言論統制が行われ、多くの人々が投獄、処刑された「白色テロ」と呼ばれる時代で、『返校』においても大きなテーマとして描かれている。

第2次世界大戦中、台湾を含むアジアの多くの地域は日本の植民地支配となっていた。しかし、戦争に敗れた日本は台湾の領有権を放棄。1895年から1945年まで続いた日本統治は終わりを告げる。
その後は戦勝国である中華民国がその領有権を得て、日本統治時代から中華民国の統治の時代へと変わっていった。

「白色テロ時代」という語は広義には1947年の二・二八事件から1987年に戒厳令が解除されるまでの期間を指す。台湾では二・二八事件以降、国民党は台湾国民に相互監視と密告を強制し、反政府勢力のあぶり出しと弾圧を徹底的に行った。白色テロの期間、国民党政権に対して実際に反抗するか若しくはそのおそれがあると認められた140,000名程度が投獄され、そのうち3,000名から4,000名が処刑されたと言われている。大半の起訴は1950年から1952年の間に行われた。訴追された者のほとんどは中国共産党のスパイを意味する"匪諜"のレッテルを貼られ罰せられた。

国民党支配に反抗したり共産主義に共鳴したりすることを恐れ、国民党は主に台湾の知識人や社会的エリートを収監した。(Wikipedia参照)

1987年以降は少しずつ白色テロを題材とした小説や映画が作られるようになってきている。侯孝賢監督の『悲情城市』(1991年)やエドワード・ヤン監督の『牯嶺街少年殺人事件』(1991年)が有名だ。
『返校』はこの系譜に連なり、ホラーゲームにこの題材を落とし込んだという活気性が、ゲームの内容に深みを齎し、話題を呼んだ。


本作、『返校 言葉が消えた日』は歴史映画でありつつ、ゲームに倣い、ホラーというフィクショナルな要素もある作りになっており、こうした手法は、例えばジョーダン・ピール監督など、ハリウッドでもお馴染みの趣向だ。
この映画は、台湾戒厳令時期の暗い歴史を絶対に忘れないという確固たるテーマ意識を原作ゲームから引き継ぎながらも、難解な概念を列挙せず、主題意識に執着し過ぎない上に、ホラー映画として一定以上の完成度を持った作品となっている。

既に死んで地縛霊となったファンが、自分が犯した行動を永遠に繰り返すという呪いを受け、ウェイによって全ての呪いが解かれて過去を乗り越えるという物語の構造は、たしかにゲーム的なコンテキストで、歴史俯瞰や再現といったこれまでの映画や小説などには見られない話法だ。

全体的に戒厳令の時代メッセージと恐怖が調和して、教訓と感動までが全て一つにまとめられているように思える。

本作は『悲情城市』や『牯嶺街少年殺人事件』などと比べたら歴史を描くという意味では内容としても深く切り込むこともなく、表面的ではあると思う。陰惨な歴史をジャンル映画におけるフィクションの題材として扱うことへの抵抗もあるだろう。だがこうしたアプローチもあることの意義も無視できないはずだ。歴史に関心を持ちにくい若い世代に興味を抱かせる入り口になるのは間違いない。事実、原作ゲームは国内外を問わず、若い世代を中心に大ヒットし、この映画も幅広く受け入れられているのだがら。


ゲームからのアダプテーション。
実際にプレイヤーが操作し、考えを巡らせて謎を解いてゆくゲームと、映画という受動的なメディアの違いは、本作を映像化するにあたって当然、無視出来ない要素だ。
特に原作ゲームはミステリーを軸に進み、誰があの読書会を密告したのかという謎を解き明かしていく過程がメインストーリーになるわけだが、本作は映像で説明し過ぎるきらいもあって、ファンが密告者であることはすぐに分かってしまう。つまりミステリーとしては全く機能していない。

そのぶん、ゲームでは表現できなかったキャラクターの繊細な感情の変化などを俳優の演技で味わうことが出来るというのがひとつの面白さではあるのだが、それだけでは物語としてのパンチが弱いのも事実だ。

次いでゲームならではの面白さをどうするかという点だ。『返校』は日本でいえば、昔に流行ったフリー・ホラーゲームに近く、情報量の少なさを前提にプレイヤーが物語や世界観を解読していく面白さがあった。一方、この映画版は映像という情報量によってある程度、世界観や物語の構造が解読出来てしまう。ゲームに比べると面白味が薄い。
原作にはなかった新たな展開を用意するとか、脱出スリラーにするとか、色々な方法論はあったはずだ。本作にはそういう映画独自の醍醐味が乏しく、あくまで白色テロ時代の雰囲気を映像にしてみせる、豪華な体験を提供するバージョンアップ程度に収まってしまっているのが残念な所だ。


また、これは原作ゲームからの問題点でもあるのだが、チャン先生とファンのプラトニックな恋愛描写は、果たして本作に必要なのだろうか。
自由を奪われている背景があるからこその恋物語であるのなら納得は出来る。例えば、ウェイとイン先生との間で、自らの精神性は自由である事を望むという秘密を共有するもの同士ならば、より物語に深みや切迫感が生まれたのではないか。
恋慕がファンにとってのトリガーとなっているのは理解出来るのだが、物語を促進する理由としてのそれならばチャン先生が応える必要性はないのだ。しかも苦しいことに、自由を求める密会者たちのコミュニティに一方的に責められるのが女子生徒というのも倫理的にはどうなのか。
本来ならば咎を負うのはチャン先生の方で、地縛霊として彷徨うのは彼でなくてはならないだろうに……。
朱音

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