朱音

ファーザーの朱音のネタバレレビュー・内容・結末

ファーザー(2020年製作の映画)
4.5

このレビューはネタバレを含みます

映画だからこそ表現できる怖さと不安。

本作、『ファーザー』は老いによる喪失感と親子愛を、"認知症の父"という画期的な視点によって描き出した傑作だ。
原作は、本作で長編デビューを飾ったフロリアン・ゼレール監督が2012年に発表した戯曲『Le Père』で、彼はもともと劇作家として活躍しており、ロンドンのタイムズ紙によると「現代において最も心躍る劇作家」と評されている。

この『ファーザー』の一番の見どころは、何の先入観も持たずに鑑賞したときに得られる、一度目の映画体験にこそある。この不可解で不条理な映像に、真正面から向き合うことで受ける衝撃。そうして認知症を発症した老人の体験する世界を、さながらVRのように疑似体験する。それこそがこの映画の要である。

作品を支配するアンソニー・ホプキンスの存在感。
主人公である、80歳を越えた高齢の老人アンソニーは、実質的にアンソニー・ホプキンスその人なのだ。名前だけでなく、誕生日もわざわざホプキンス本人と同じ日(1937年12月31日)にし、そうすることで観客が、作中のアンソニーをアンソニー・ホプキンスと誤認してもおかしくない物語構造に設えている。
もともと舞台劇に基づいて制作された本作だが、映画化する過程で、数々の名演で知られる俳優アンソニー・ホプキンスを主役に据えることで、彼へのオマージュとなる作品になり、そのオマージュの力学が、翻って映画そのものを支配するに至った。第93回アカデミー賞で、主演男優賞と脚色賞の2部門を受賞したのも頷ける、見事な采配である。

そのフィルモグラフィを振り返ると、アンソニー・ホプキンスは、数多の作品で怪優として百面相を演じてきた。フィクションでもノンフィクションでも、架空の人物でも実在の人物でも、彼が出てきただけで画面を支配してしまうかのような圧倒的映画力が備わった、まさに名優の名に相応しい役者だ。
そんな彼が占める物語の重心としての位置付けを根底から覆すようなキャラクターが、本作のアンソニーだ。彼の役者としての基軸が強ければ強いほど、本作でみせるアンソニーの揺らぎは、世界の軸そのものが根底から崩壊してゆく恐怖を、観るものに実感させることが出来た。どのような栄光も、威光も、彼が歩んできた道程のそのすべてが、なべて朽ち果ててゆく。だからこそのこの上ない真実味であり、この映画は驚異なのだ。


不確かな記憶によって崩壊する世界。
先述したとおり、本作には認知症を映像にしたらこうなるのかという辛い発見が、そこにはある。

記憶を失う恐怖や、戸惑いを描いた映画としては、たとえばクリストファー・ノーラン監督の『メメント』(2000年)や、テイト・テイラー監督の『ガール・オン・ザ・トレイン』(2016年)のような作品が思い出される。だが、そうした作品は記憶の不確かさをスリラーやサスペンスの要素として活用しながらも、物語の進行とともに記憶の忘却という事実を認め、失ったものを取り戻すという展開によって、ある種の救済が与えられてきた。つまり、"失った記憶を取り戻す"ことで、"正しい世界に戻る"という実感を得ること、その原状回復のプロセスが物語を牽引し、それがカタルシスとなっていた。

だが、この『ファーザー』では、そのような定番のカタルシスを得られることはない。この映画で扱われた認知症の場合は、そもそも"失った"ものではなく、ただ現実が徐々に、認知した結果として不安定化してゆくだけなのだ。崩壊してゆく世界を、ただ見つめることしか出来ない本作は、言ってしまえば究極的に後味の悪い映画だ。キャラクターと共にどこに向かうのか、何を共有するのか、その解を見いだせぬまま、アンソニーが知覚する"現実"の揺らぎに身を任せる体験というのは、かくも恐ろしいものであるという、放心を半強制的に味わせられることになる。


多用されるミスリード。バイアスの落とし穴。
その上で、この映画が興味深いのは、先述したような俳優アンソニー・ホプキンスのキャリアが齎す、彼への絶大な信頼感をミスリードとして巧みに利用している点だ。ジョナサン・デミ監督の『羊たちの沈黙』(1991年)でのハンニバル・レクター博士よろしく、これまで知性的で品格のあるキャラクターを演じてきたホプキンスが、認知症の結果、意味が不明な言動を撒き散らす姿を、ごく普通のものとして受け止めてしまえる。そこにはこれまでのフィルモグラフィがそうであったように、彼が至って正常であるというバイアスがどこかに働いてしまうのだ。
また、さらに巧妙なことに、本作では至る所に物語の鍵を握るであろうヒントらしき要素が散りばめられている。これもまた大いなるミスリードで、観客はどこかにきっとこの不条理を解く鍵が埋め込まれているはずだ、と思いながら見続けてしまう。だがいくらそのヒントを頼りに思考を巡らせても一向に事態は解決しない。


信頼出来ない主観と、歪に歪んた世界。
そもそも認知症とは何なのだろうか。認知症は脳の障害であり、周囲の現実を正しく認識できなくなる。これは物忘れの症状に近いのだが、いわゆる加齢による物忘れとは全く異なる。
例えば、朝に何を食べたか思い出せない。これは加齢もしくは一般的な物忘れだ。一方で、認知症になると朝ご飯を食べたこと自体を忘却し、しかも自分が忘れていることを認識できない。

生命保険文化センターによれば、日本には認知症の高齢者が約602万人もいるそうだ。これは高齢者全体の16.7%、約6人に1人が認知症有病者と言えるのだとか。将来的には2060年には高齢者の4人に1人か、3人に1人の割合で認知症が生じるという予測も出ており、なかなかに衝撃的な事実だ。
自分もいつか……、という不安は誰の中にも隔てなく存在する。

アンソニーが覚醒している状態で、確かに現実の事件が彼の目の前で起こっているのだが、しかし、彼の脳は、その目の前に生じている出来事を、彼の記憶や願望に基づき、無意識のうちに書き換えてしまっている。観客は主人公と同様に、この信頼出来ない主観によって紡がれる映像の不可解さにひたすら翻弄され続ける。ときには、時間の先後関係が混濁してしまうことすらある。普通なら悪夢と言うべきものだ。
夢や妄想とも違う、本人の意志や欲望とは異なるところで、勝手に認知機構の配線が混線し、入出力に不調をきたしてしまう。アンソニーの意志には何の主導権もない。彼の失調したマインドが、彼の意識を越えて、勝手に目に映った事実としての映像を生成してしまう。

アンソニーは、映画の中で、何度も自室の窓から外を眺め、通りで遊んでいる子どもの姿を目にする。だが、最後までこの映画を観たあとでは、恐ろしいことに、この窓の外の光景ですら、どうやらアンソニーの心が生み出した映像だったようなのだ。こんな具合に、これまで観てきた映像のそこかしこに、このような疑問が湧き上がり、いつしか映像の全てが信用ならないものに思えてくる。
この構造こそが本作の最大の特徴であり、他では味わうのとの出来ない映画体験なのだ。
朱音

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