平野レミゼラブル

キネマの神様の平野レミゼラブルのネタバレレビュー・内容・結末

キネマの神様(2021年製作の映画)
3.3

このレビューはネタバレを含みます

【立てばジュリー、座れば洋次、若き姿は菅田将暉(角度によっては志村けん)】
酒と博打で家族を不幸に追いやるダメ親父ゴウが、愛する映画によって再起を図る原田マハ先生原作の同名小説を松竹百周年記念作品として巨匠・山田洋次監督が映画化。コロナ禍によって主演予定の志村けんが急逝したり、そもそもの撮影が中断されたりの様々なアクシデントを乗り越え、ジュリーを主演に据え替えて何とか完成となりました。

マハ先生の原作は既に読んでいたのですが、映画化第一報の時に狂言回したるゴウの娘・歩(寺島しのぶ)を差し置いて、原作で特に触れられることがなかった若き日のゴウとして菅田将暉が発表された時点で大分違うなという印象がありました。あらすじを見てもかつてゴウは松竹で映画監督を志していただの知らない情報が並んでいたため、原作に出ていない知らない人が9割を占めていた『騙し絵の牙』の予告を見た時と同じ感覚ですね。
ただ、マハ先生の小説でゴウがやっていることって映画レビューなんですよ。それが認められて映画ライターとして再起して、そこから始まる友情だとか、友人のテラシンのミニシアターの危機を救うとかのドラマに繋がるんですが、まあその内容をそのまま映画化するのは画的にも展開的にも映画としてやるには厳しすぎる。『ニュー・シネマ・パラダイス』をはじめとした名画の数々も実名で出して批評しているので、権利関係とか諸々の問題も絡んできそうですしね。

そのため、話自体を「ゴウが映画作りで再起する」という形に改変してしまうのはアリっちゃアリです。まあ、あまりに変えすぎているため「山田洋次監督レベルのネームバリューならオリジナルでやってもいいんでないの?」とか「ここまで大胆な改変を原田マハ先生自体はどう思っているの?」とかの疑念はよぎらなくもなかったんですが、後者に関しては「映画版『キネマの神様』のノベライズを原田マハ先生が担当する」というよくわからない捻じれ現象によって解決していました。『キネマの神様』(著:原田マハ)を元にした『キネマの神様』(監督:山田洋次(原作:原田マハ))を元にした『キネマの神様』(著:原田マハ(原作:山田洋次(原案:原田マハ)))ですね。何が何やら……
いや、映画ノベライズ版『キネマの神様』(この表記もややこしいな…)のまえがきとあとがきで、原田マハ先生も山田洋次監督もお互いにリスペクトしていることが窺えたので本当にオールオーケーなんですけど。

まあ実際、映画の内容は大元の原作版『キネマの神様』とは全くの別物と言って差支えはなかったです。
ただ、それでも「引きこもりの青年がゴウの文章力に感銘を受けて、再起の手伝いをしてくれる」という要素はキャラクターこそ別人なものの再現してくれていましたし、原作での大目標であったテラシンの名画座を救うという部分は、コロナ禍に絡めて応援する形に持ってきており、換骨奪胎自体は中々巧いです。

映画オリジナルパートである若き日のゴウ達による映画作りの日々を描いたパートも中々良いです。
50~60年代の全盛期ともいえる松竹大船撮影所の様子や、そこで助監督として走り回るゴウの活気に溢れた姿が当時の様子を思い起こさせるような質感で再現されており、映画作りの現場を覗き見るかのような楽しさに溢れています。
ゴウが監督デビューした際に、ベテランカメラマンに「俯瞰で撮りたい」と言って渋られたシーンなどは、実際に山田洋次監督がデビュー作である『二階の他人』で同じようにカメラマンに要望を出して却下された逸話を元にしているようで、山田監督の体験談を織り交ぜたシチュエーションが中々楽しいです。
若き日のゴウ、テラシン、淑子、売れっ子女優の桂園子の4人が育む友情や恋については、ゴウが辟易としていた「ウチ(松竹)の会社が作っているメロドラマやホームドラマ」の展開そのものではありましたが、当時の映画らしい質感になっていたり(車に乗ってるシーンの合成っぽさが物凄くそれっぽい)、関係性の転がし方自体も手堅くまとまっているので中々どうして悪くない。


ただし、個々の話がいくら良くても、これら全ての要素が混ざった場合は話が別です。大きく設定は変えてはいるものの、骨子自体は変えていない原作部分と、山田監督の思い出語りとも言えるオリジナル部分が合わさった瞬間、途端に物語はちぐはぐとなり、映画全体が散漫になってしまった印象が否めないのです。
最大の問題はゴウのキャラクターが、過去と現在とで乖離しすぎていて別人のようになっていること。若き日は映画に夢中で夢を追い求めて周囲を引っ張っていく熱い朴念人といったキャラクターでストイックな印象だったのに、老いた途端に博打と酒に溺れて闇金で借金を重ね周囲に迷惑しかかけない駄目人間となるのは流石にギャップがありすぎます。
何故そうなったのか?の理由にしても、その中間がすっぽり抜け落ちており、想像で埋めるにしても厳しいです。いくら全てを語るのは悪手と言っても、どうにも繋がらないのだからそこに至るまでの説得力くらいは欲しかった。
あと、腐り出すきっかけの一つにあるのが「撮影中に骨折したから」というのもよくわからないです。そんなもの、治してから撮れば良いですし、実際周囲も待ってくれるような雰囲気だったので、尚更ゴウが全てを投げ出してしまう感情に理解が追い付きません。

映画版ノベライズではゴウを「三、四十代の頃は遠目に見ると沢田研二に似ていると思えなくもないくらいだった。角度によっては志村けんに見えることもあったが」という「どういう顔の構造だよ!?」と突っ込みたくなる容姿に設定していましたが(笑)、性格自体も角度によって別人のようになってしまうビリー・ミリガンもかくやという多重人格者となってしまっているのです。
まあ実際、ジュリー(角度によっては志村けん)の若き日が菅田将暉って時点で滅茶苦茶ですからね。さらに映画版では、若き日のゴウは前述通り山田洋次監督の自己投影という側面もあるので、性格自体が全く違うものになっているのも無理からぬことなのです。なんせ山田洋次監督は特に酒や博打で身を崩すこともなく、真面目に松竹で働き続けて名匠になっているのですから。老いたゴウとは真逆の人間と言って良い。
若き日の姿は菅田将暉、映画への想いや情熱は山田洋次、老いた姿は沢田研二、そして志村けんをリスペクトしたような演技や『武蔵村山音頭』を歌うような一幕も入れてしまったことで、ゴウという人物には計4人の人格が混ざり合うことになる。これで一貫性を持たせようとしたこと自体がかなりの無茶筋です。

思うに「原作からの変更」「志村けん→沢田研二へのキャスト変更」「コロナ禍の情勢を挿入する変更」という3つの変更を短期間で余儀なくされたのが、映画『キネマの神様』に感じる全体的なちぐはぐさの要因ではないでしょうか。
「原作からの変更」だけであれば、原作とオリジナルパートの繋ぎのエピソードを練って挿入することでカバーすることが出来ます。実際、これまで何作も監督してきた山田監督レベルであればいくらでも説得力のあるエピソードを創作できる筈ですし、繋ぎ目をなくすことだって出来た筈です。
しかし、コロナで急死した志村けんの遺志を継ごうとしてしまい、そこにさらに「コロナ禍の情勢を挿入する変更」を盛り込んでしまったのがおそらく良くなかった。確かに志村けんの遺志を継ぎ、その命を奪ったコロナに対抗しようという想いは素晴らしいものだと思います。ただ、そのコロナ禍要素も混ぜ込んでしまった結果、折角のハレの日であるゴウの再起の舞台にすら辛気臭い空気が漂い、物語全体に妙な影を落としてしまったような気がしてならないのです。加えてコロナ禍のエピソードに注力するあまり、肝心の「原作からの変更」があやふやなまま進んでしまった感じも否めません。
端的に言えば欲張りすぎであり、さしもの山田洋次監督も、これら3つの変更点を混ぜ合わせた上で味を整えるのは不可能だったということでしょう。

逆に言えば、個々の物語としては別段悪くはなく、それぞれ秀でたところもあったというのが惜しい。それこそ『キネマの神様』としてお出しする作品と、コロナ禍における無念を描いたものとしてお出しする作品で分けてさえいれば、どちらも面白い作品として評価できたかもしれないからです。
どんなに面白いエピソードでも、それを一緒くたにすればその分面白くなるというワケではない。「1+1で200だ。10倍だぞ10倍」理論は映画においても成り立たないのです。


書いている内に、割と不満の方が大きくなってしまったので最後に良かったところをもう一つほど。
若き日のゴウパートで名女優・桂園子を演じた北川景子が、正に昭和の美人女優さんっぽい雰囲気に溢れていてとても良かったです。演技時の昭和のややオーバーだけど気品ある雰囲気とか、プライベートでは割とサバサバしているギャップも素敵でした。
それこそ伝説の名女優と謳われた原節子の一代記をもしも映画化するのであれば、彼女をオファーして欲しいくらいです。