平野レミゼラブル

ビルド・ア・ガールの平野レミゼラブルのレビュー・感想・評価

ビルド・ア・ガール(2019年製作の映画)
4.1
【スクラップ&ビルドされる赤毛のアン】
試写会はよっぽど興味がないのじゃない限り、極力申し込むようにしているのですが、そうは言ってもやはり申し込んだこと自体を忘れてしまう映画もありまして、本作もまたそこまで優先度が高いワケではなく、当選したことでやっと存在を思い出したレベルの作品でした。
主演が『ブックスマート』のビーニー・フェルドスタインと言っても、僕はあの作品が世間的な評価レベルにブッ刺さったワケではないし、昨今流行りのガールズエンパワメント系にもちと食傷気味。物語で重要な位置を占めている90年代のUKロックについても、あまり聴いたことがなく全くの無知です。
ただ、自分に自信が持てない主人公ジョアンナ・モリガンが、勇気を振り絞ってロックミュージックの批評の世界に飛び込んでいくって部分に、昨年の秀作『カセットテープ・ダイアリーズ』に通じる要素を感じたんでしょうね。多分、申し込んだ理由はその辺りだと思います。

そんな感じで、然程期待もせずに観に行ったんですが、これがなんと結構面白い!予想外と言ってしまっては失礼ですが、それにしても拾い物でしたね、これは。
語り口は軽妙で面白いし、奇抜な演出も楽しく、そして何より多感な時期故の派手な失敗や後悔をも肯定してしまう青春映画としての優しさやエネルギッシュさが明るくてステキです。


全体的な雰囲気が圧倒的“陽”でエネルギッシュかつ前向きに進んでいくコメディ映画として構成しているのが良いです。
ジョアンナの置かれた状況はスクールカースト最底辺で、容姿や貧しい家の状況を揶揄されて弄られまくっていますし、家に帰れば未だかつて志したロックへの未練たらたらの駄目親父(仕事は無許可の犬のブリーダー)と双子を生んでからは産後鬱に陥っている母親というように良いとは言い難い。
それでも、家族には愛が溢れていて、父親は娘の得意な文筆方面での夢を応援して積極的にサポートしてくれますし、同じ学校に通う弟も自己評価低めな姉を邪険に扱うどころか励ましてくれる。貧しく、ダメダメなんだけど、それでも悲壮さより圧倒的にボンクラさの方が大きい一家の描写がどこか楽しい。

加えてジョアンナがよくする妄想を具現化したような演出に語り口もユニークでフフフと笑えます。
冒頭から図書館で夢想するのは、自分をここから引っ張りだしてくれる王子様の存在ですし、家に帰って心の拠り所にするのは壁に貼ったフロイト、ジョー・マーチ(若草物語)、マルクスといった先人達の写真です。
前者は次々と理想の王子と現実の田舎者男子が空想からポップする、後者は写真の中の人物達が魔法学校のように動き出して喋り出す演出が軽快で楽しい。ジョアンナが「死にたい…」と呟けば、目を輝かせて「任せて!」とか言い出すシルヴィア・プラス(オーブンに頭を突っ込んで自殺した詩人)とかキレキレすぎる。
そんな自分を卑下しつつも、想像力豊かな女の子という造形はどこか赤毛のアン的でもあります。

その文才がやっとこさ評価され、TVのスピーチ番組の代表に選ばれても、彼女は緊張のあまり吹っ切れて生放送中にスピーチそっちのけで「スクービードゥービードゥー!!」と大暴れしてしまい、そこから連鎖する形で親父の違法な商売もバレて手当金の停止&失業といった具合の転落もあまりにボンクラすぎて笑ってしまう。
まあ、一家にとっては死活問題のため、ジョアンナも責任を感じて自分から稼ごうと動きます。とりあえず文才を活かせればなんでもいいということで、弟の見つけたロック評論のライター職に応募。好きな音楽はミュージカルの『アニー』で、ロックなんて聴いたことがないにも関わらず。

まあ、案の定というか「面接に来た」と伝えても、編集部からは見るからにロックとは無縁そうな女の子なんて邪険に扱われるワケです。実際ロックと無縁に生きてきたのだから残念ながら当然とも言えますが、それにしたって一目でジョアンナを下に見ている編集部の印象は最悪。Fワードが飛び交いまくる下劣さも相俟って流石ロック編集部だなってなります(※僕は『あの頃ペニー・レインと』を観て得た知識による偏見のみでロック編集部を語っています)。
コテンパンにされてトイレで反省会を開くジョアンナ。またしてもネガティブモード突入ですが、ここで食い下がるワケにはいかないと奮起することになる。スピーチ番組で見せたように彼女は追い詰められると開き直って暴走する傾向にあるんですね。そして勢いそのままに編集部に再度乗り込み、開き直って自分を前のめりに売り込みにかかるのです。
その前のめりな熱意で「おもしれー女」となったのか彼女は交渉の末、新聞の小さな記事としてではありますが音楽評の仕事を手に入れます。

ここからの彼女のサクセスがまた楽しく、はじめて自分の記事が載った新聞を嬉々として(ツケで)買い漁り、仕事をじゃんじゃんこなすことで一家の稼ぎ頭にまで上り詰めます。
本人もイケてないジョアンナ・モリガンという“自分”を捨て去り、ペンネームのドリー・ワイルドとして生き始めることを決める。イケてる自分の象徴として髪を赤く染め上げ、奇抜な衣装に身を包んでアタシ再生産するのです。ジョアンナを赤毛のアンと称しましたが、本当に赤く染め上げちゃいましたよ。

この新しい世界に飛び込んでいく快感ってのも、またビーニー・フェルドスタインの底抜けの明るさが活かされていて楽しかったですね。いつもはおっかなびっくりだったのに、だんだんと堂々と顔パスでロック会場に入って挨拶を決めるようにまでなっていく。ロック編集部のセクハラにも果敢にやり返していくサマなんかは逞しくなった証と言えるでしょう。
素敵な出会いもあり、特にジョン・カイトという売り出し中のアーティストと取材で深める心の交流が微笑ましい。ジョンはビリー・ワイルドとして作った自分から漏れ出すジョアンナ・モリガンという素の純朴な女の子の部分を好ましく思って、心を開いてくれるのです。

この2人の会話にある「扉」の話も象徴的で、ジョアンナは「外界と閉ざしてくれる扉が好き」と語ります。作中でも何度か扉は「閉ざされた」モチーフとして登場していきます。モリガン家の子供部屋は真ん中に扉を隔てることで弟と二つの部屋に分けていますし、ジョアンナがクラスのイケてる文筆メンバーが集まるサロンのような部屋を眺めているのもガラス貼りの扉です。
ただ、扉は閉ざすだけでなく、開けて繋がることが出来る役割も持ちます。ビリー・ワイルドとなったジョアンナは、サロンへの扉を開けてイケてるメンバーへの仲間入りを果たすこともできるようになる。これこそ、新しい世界に飛び込んでいく特権であり喜びの現れですね。
ただ、反面閉ざされてしまう扉もあるワケで、よく部屋の扉を開けながら会話していた弟とは、姉がビリー・ワイルドとして変わり果ててしまうと開かれる頻度も少なくなってしまう。彼女はジョアンナとしての扉と、ビリー・ワイルドとしての扉の二つを同時に持ってしまったが故に、古い扉であるジョアンナの方を外界から閉ざす役割に固定しまったのです。

この二つの扉の存在に一番悩まされるのが、当のジョアンナ=ビリー・ワイルドでして、仕事においてジョアンナとして失敗を起こしてしまったことで、余計にビリー・ワイルドとしての自分に拘泥することに繋がります。
確かにビリー・ワイルドとしての彼女は、新しい道を切り拓く逞しさに溢れているんだけれども、ロック編集部の悪い大人達はそんな彼女をあろうことか誤った道へと唆していってしまう。その誤った道こそ“辛口評論家”としてのビリー・ワイルド。彼女の歯に衣着せぬ痛烈な物言いがウケると打算した編集部は、ビリーの文才をミュージシャン個人への誹謗中傷でしかない記事の執筆へと駆り立てるのです。

この辺りは悪い大人に乗せられてどんどん間違った行動ばかり取ってしまうジョアンナの姿が痛々しいものがありましたね…
ビリー・ワイルドの文章こそ、家族間で交わされるモリガン家直伝の辛辣な物言いで、妙に小気味良くはあるんだけど、批判しているのが音楽じゃなくて容姿とかだから最低なんですよ。
ジョアンナ自身も身も心もビリー・ワイルドへと浸食されてしまい、家族仲は険悪に、友人をも裏切ってしまい、挙句の果てにはある種の「父殺し」にまで発展してしまうサマは中々心痛いものがありました。

本作は理想と現実の差に苦しみ、世間的な評価でのぼせ上がってしまうことで余計に「自分」から離れてしまう苦しみをも描いた作品になっています。
コメディとして明るい雰囲気を保たせていた本作においては、ビリー・ワイルドとしての苦しみは生々しく、また多感な時期故の失敗ということもあって辛い部分があります。しかし、変化のポジティブな部分だけでなく、それがもたらす暗いネガティブな部分まで描いたことは物語に深みをもたらすことに繋がったとも言えるでしょう。
それに本作は変わることに失敗したことを「詰み」とは結論づけていません。誤った道に踏み込んでしまったのならば、その誤った部分を徹底的に潰して作り直せばいい。人生色々躓くし、成りたい自分から大きく逸れることもあるけれど、その都度自分を作り直して挑戦してみればいいじゃないか!という真っ直ぐなメッセージを最終的にぶつけてきたことにはジーンと来てしまいました。

本作の原作である『How to Build a Girl』も、実際のビリー・ワイルドことキャトリン・モランの半自伝的小説となっていまして、彼女もまた新たな自分を作り直して現在コラムニストやテレビ司会者として活躍中。
キャトリンが映画内のジョアンナとどこまで共通しているかはわかりませんが、キャトリンもまた実際に迷惑をかけてしまった相手には謝罪をして禊を払いつつ、新しい自分としてやり直すことができた。ならば一番好きな自分は「過ちを正して建て直した今の自分」って主張して前を進んだっていいじゃないかという優しい激励になっているのが心強いです。

結構七転び八起きで、辛いこともそこそこありながらも、全体で言えばポジティブに寄ったまま物語を進められたのは、やはり主演のビーニー・フェルドスタインの嫌味なき底抜けの明るさのおかげ。個人的には『ブックスマート』以上に彼女のことを好きになれる心地好いキャラクターしていると思いましたよ。
彼女の憧れの相手であるジョン・カイトを演じるアルフィー・アレンも、どこか影がありながらも、かなり思慮深く真摯な良い男っぷりがステキでした。彼に関してはあまりに良い男すぎて調べてしまいましたが、どうやら架空の人物だった模様。そんな……!確かに理想的すぎる人物造形だったけれども……!!
あとはやっぱり、作中で流れる90年代UKロック軽やかさですね!!酸いも甘いも噛み締めた青春時代の音楽モノとして、この手のロックナンバーは必須と言っても良い。『カセットテープ・ダイアリーズ』然り、『あの頃ペニー・レインと』然り、『シング・ストリート』然り。EDの楽曲も何より素敵でして、音楽に乗せてとことんポジティブに成れる快作です。

オススメ!!