朱音

整形水の朱音のネタバレレビュー・内容・結末

整形水(2020年製作の映画)
3.0

このレビューはネタバレを含みます

韓国で発展し世界に広がった漫画のプラットフォーム、Webtoonは多くの韓国ドラマや映画の原作となり、韓国コンテンツの世界化に大きく貢献している。
『奇々怪々』は、グローバルでの累計閲覧数が31億回以上を記録し、韓国の電子コミックサービスNAVER WEBTOON内での作品評価が10点満点中9.9点をマークする、人気のオムニバス形式の作品だ。
その中でもとりわけ耳目を集めているのがウェブトゥーン・アーティスト、オ・ソンデによる一連のホラー・スリラー作品だ。作中屈指の人気のエピソード『整形水』を長編アニメーションとして映像化したのが本作である。


調べてみると原作とアニメ版とでは内容に大きなアレンジが施されているようだ。原作版では"整形水"というアイデアそのものが主軸になっており、整形水を巡る人々の欲望が制御不能に陥るプロセスを、第三者的な視点から淡々と追っている。
対する本作では、イェジをはじめとした登場人物たちの心の闇にフォーカスし、肉体の変化とともに激しく揺れる感情を、仮借なく抉り出している。
つまり"整形水によって変身出来る"というコンセプトだけを残し、映画ならではのテーマ性に沿って、新しい物語を形成したといえるだろう。

社会問題を反映する複雑なキャラクター性。
ルッキズムや、カジュアル化している韓国の整形事情、様々な格差、といった複雑な社会問題を内包しつつ、そこに描かれるキャラクターは類型的なシンプルさからは程遠い。特筆すべきはイェジがただ"かわいそう"なキャラクターではないことだ。ミリへの怒りと嫉妬から、彼女は匿名でミリへの誹謗中傷を書き込み、それ以外にも"持てる者"たちに向けた悪辣なデマや暴言によって、自身の精神バランスを保っている。
整形水の効果を確信するなり、両親を脅し付け、巨額の散財を強い、そしていざ、美しさを手に入れた後は、自分に言い寄ってくる冴えない男たちを露骨に蔑むようになる。
このようなキャラクター造形には、脚本を含む制作の各段階において、女性スタッフのフィードバックが全面的に反映されたという。
どこか露悪的なリアリティ・ショーを観ているような、卑近にして好奇心を擽られる感覚へと観客を誘うチョ・ギョンフン監督の作劇が光る。

こうした複雑な人物造形からは、もともと複雑なテーマを簡略化し、平易な分かりやすさを提示しないという制作上の狙いも見て取れる。事実、本作は整形で美しくなることをある面では肯定しているのだ。問題は整形ではなく、むしろ人を追い込んでいくルッキズムの方にある。

ギョンフン監督はこう語る。

「美しさにも暗い側面はあります。美しくなったイェジは、今度はじろじろと見られることに耐えねばならない。これもひとつの暴力であり、美しさにかかわらず、我々はルッキズムの悪循環から逃れられないのです。」

思えば、外見的なコンプレックスにずっと悩んできたイェジが、ほのかな恋慕を寄せるジフンから褒められた"瞳の美しさ"もまた外見的な要素だ。
自身の「愛されたい」という欲求が、そのコンプレックスによって、翻せば、他者に認められたいという一点において極化している事実は、それが変わらない以上、彼女をルッキズムの渦中に置いて苛み続ける。外見至上主義の現代の中で、アイデンティティを喪失し続けた人間の哀しみがそこにはある。


藤子不二雄Aの『笑ゥせぇるすまん』の系譜。
イェジはこの整形水を使って思い通りの美人となり、仕事も人生も万時うまく行くサクセスストーリーを歩む。という事にはならない。
藤子氏のブラックユーモアよろしく、性格に難アリのキャラクターが、便利な道具やサービスを使って調子に乗って、やがて道を踏み外し、しっぺ返しを受ける"因果応報"的な物語である。

「美人であること」それだけが価値基準であるという落とし穴。
イェジは幼少期から自分の外見に強いコンプレックスを抱えていて、だからこそ美人になって男たちから言い寄られることに優越感を感じ、そして異常なまでに再び自分が醜くなってしまうことを恐れている。皮肉にも、彼女は美女へと変貌したことで、より「見た目が全て」になってしまう。
両親はどのような姿であれ娘を愛していたし、彼女自身、最後はその事に気付くのだが、時すでに遅し、というのが凡そよのセオリーだ。

しかし本作は、念入りに用立てたファクターを、思いもよらない形で一蹴してしまうラストの展開に特徴がある。あるいは本作は、トラウマ級のカルト作となり得たのかもしれない。奇を衒ったラストは日本の作品ではまずお目にかかれない強烈なインパクトがある。だが本作の脚本のクライマックスは些か不細工だ。
外見至上主義への批判や抵抗、あるいは皮肉と捉えられなくもないが、それにしたって力業が過ぎるだろう。終盤まで積み重ねてきたディテールや問題提起は、すべてこのカオスの中に霧散してしまっている。
「愛されたい」という根源的な欲求は、条理のもと、正しくイェジによって理解され、それが果たされないという形で還元されてゆくのが筋だろうと私は思う。彼女が親の愛情に気付いたとき、もう彼女にはそれを手繰り寄せる資格も術も失われてしまっているというラストでも良かったはずで、丹念なドラマであれば、道理に則った形で終幕しようが、見応えはあっただろう。
だが本作は、そういったドラマツルギーを放棄して、より露悪的なインパクトを取ってしまったように見える。これは安直ではなかろうか。


なぜアニメーションなのか。
韓国の商業アニメーションの市場では、大人向け劇場用作品の興行は難しい。海外における韓流ドラマや、実写映画の人気や評価を鑑みても、この『整形水』の映像化企画を実写で売り込まない理由を見付ける方が困難だ。

ただ、本作にはアニメーションならではの活かし方がきちんと散りばめられているのは評価出来る。

例えば整形水によって顔や身体が、文字通り変身してゆく様は見どころのひとつだ。
また肉が溶け、削げ落ちる、というグロテスクさもアニメーションを通して見ると、比較的受け入れやすいものになっているのは間違いない。

現地公開前のインタビューで、チョ・ギョンフン監督とプロデューサーのチョン・ビョンジンは、

「原作のウェブトゥーンでは、身体の変化がかなり過激な表現になっているが、アニメーションでは少し抑えめにした。無難になり過ぎたかと思ったが、出来上がった映像はちょうど良い加減だったと思う。」

とコメントしている。

また、細かなところでは整形前のイェジの部屋など、色彩を落とした暗いトーンだった前半部に対して、整形後は彼女自身の気鬱が晴れたかのように、光彩が輝いているというコントラストの付け方も巧みだ。

同じく漫画原作の、松浦だるまによる著『累 -かさね-』は主人公の外見的コンプレックスと、満たされない自己の欠落、それによって湧き上がる美を求める狂気のような執念、と、本作と類似する点が多い。
だが、この『累 -かさね-』が実写映画化された際には、主人公の累役に芳根京子と、美人女優を配置したことで原作のもつ慟哭的な悲哀を損ねてしまったものと私は見ている。
韓国映画においては、役者の顔付きにかなりバラエティ性があるとはいえ、ルッキズムをテーマにした作品で、この主演に据えるキャストには苦慮することだろう。ともすれば『累 -かさね-』と同じ轍を踏むことにもなりかねない。
だがアニメーションは、それを容易にする。イェジとソレのコントラストに驚異的な違和感があったとしても、アニメならば整合性が取れるのだ。
朱音

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