平野レミゼラブル

映画 太陽の子の平野レミゼラブルのネタバレレビュー・内容・結末

映画 太陽の子(2021年製作の映画)
4.6

このレビューはネタバレを含みます

【E=mc2 科学の本分はただ前に進むこと。嗚呼、破滅の光は何故あんなにも美しい…】
第二次大戦下、京都大学でも行われていた核爆弾の研究という史実と、そこで研究に勤しんでいた学生の日記を元に創作した異色の戦争青春映画。
元は昨年に終戦75年目ということで製作されたNHKドラマとのことですが、今回は劇場版としてドラマ版とは違う視点で描き再編集したものとなっています。感覚としては昨年の『スパイの妻』に近しい感じですかね。あちらもドラマSPを再編集して映画版にしていたので。
『スパイの妻』も中々の力作でしたが、本作もまたNHKの底力を見せつけた作品となっており、静謐かつ丁寧な演出を通してあるがままの科学と青春、そして戦争を真面目に突き付けてくる非常に見応えのある作りとなっていました。

唯一の核被爆国であり、そして近年でも311と言った原子力に纏わる問題を抱えている日本からすると、原子力の研究というのは非常にデリケートな題材になります。広島原爆投下の日を公開日としている本作も、もちろんその原子力という脅威やそれを生み出す人間の業深さなどにも触れて問題提起をしてはいるのですが、その描き方については至極フラットだったように思います。
核を始めとする科学の在り方を「ただの事象の追求であり、そこに善悪は介在しない」としており、特に過剰に賛歌も非難もしない、ただあるがままを映し続けているのです。

主人公である石村修(柳楽優弥)は、よくイマジナリー・アインシュタインと脳内で対話を行っているのですが、そのアインシュタインが定義付けた「E=mc2」は作中で何度もクローズアップされます。
1907年にアインシュタインが発表したこの「質量とエネルギーの等価性」を表す式は、20世紀から現在に至るまでの「科学の基礎」であり、だからこそ現在の神羅万象を表す上での大原則にして絶対です。作中で何度も修は、その使いようによっては大勢の人を殺傷してしまう禁忌とも言える研究に触れながら、そのあまりの在り方に疑問を投げかけるのですが、彼の中のアインシュタインは「E=mc2」という科学の絶対を掲げ続けるため反論することができないんですね。

「E=mc2」は言い換えれば、「科学に善悪なし、ただそれに関わる人の善悪如何」ということですが、戦争という異常事態においてはその人間の善悪というものが特に両極端なものになってしまいます。
京都大学の研究チームの間でも、核兵器の開発の是非については議論されていますがメンバー内での意見もバラついています。「大国より先んじて作ることで戦争というパワーゲームを支配する」という『抑止力』としての考えもあれば、「アメリカに落として報復する」という『復讐』としての使い方を訴える者もいる。修はと言うと、その在り方の大きさに途方に暮れて「わからない」としつつも、核分裂が起こすその科学の光の美しさに魅せられている節があります。
その幾度となく続けられるやり取りの末に「科学とはひたすら前に進み続けるもの」と定義付けられる。それは、真理を追い求め続けて研究と実験を続ける科学者としての「当たり前」ではあるのですが、戦争はその「当たり前」すら歪ませてしまう。戦争でこれまで犠牲になった人々の無念の想いが、「前に進むこと」を「呪い」へと変貌させるのです。

科学の前では人の死すらただの事象に過ぎない。
ならば科学者はその死に意味をもたらす為に進み続けなければならない。
夥しい数の死を前に科学の徒は苦悩しながらも前へ前へと向かうのです。


僕が大好きな科学漫画『Dr.STONE』でも「E=mc2」は「科学の基礎」として掲げ続けられますが、「科学で全人類を救う」という希望を提示したそちらとは真逆の方向へ突き進む本作は観ていて中々キツいものがあります。
大原則が同じでも、その在り方をいかに解釈するかで希望にも絶望にもなるってことの表れでして、やはり「科学に善悪なし、ただそれに関わる人の善悪如何」なのでしょう。
しかし、だからといって本作で扱われる科学は悪い側面ばかりなのかと言うとそうではありません。科学に対して常にニュートラルだからこそ、『Dr.STONE』同様に科学に勤しむ若人達の姿が眩く映る青春映画としての感銘も確かにそこに在るのです。

まず、主人公の修がひたすら実験に奔走する青春モノとしてシンプルに楽しく、良く出来ているんですよ。
修は赤点常習犯の劣等生なんですが、その代わりに「実験の鬼」と称される程に研究室に入り浸り寝食を忘れて実験を続けています。ゼミの長である荒勝文策教授(國村隼)も「科学者の本分は実験。試験は赤点くらいが調度良い」と宣っているので、修は劣等生でありながら原子物理学の権威の秘蔵っ子のポジションなんですね。
そんな実験の鬼だからこそ閃ける思わぬ発想がありまして、それが皆が難儀する課題に対する突破口になるのが気持ち良い。一方で数式すらまともに理解できないことを周囲に呆れられたりもするのですが、ゼミの皆の協力と科学に対する無限の推進力を元に少しずつ学んで前へ前へと進んでいくサマは、正に『Dr.STONE』にも通じる科学の面白さの体現となっています。

科学の外の青春描写も素晴らしく、集団疎開で修の家に居候する幼馴染で想い人の世津(有村架純)と、肺の療養のため一時帰還してきた陸軍下士官の弟・裕之(三浦春馬)との淡い三角関係も見所の一つ。
修が科学の道に邁進する代わりとして軍人となったのが弟の裕之なのですが、兄弟仲は滅法良く、お互いに尊重し合っているため世津を巡って争うこともないというのが微笑ましい。
一方の世津はというと「私の気持ちを無視して勝手に結婚の話をするな!」と2人を𠮟りつける自立した女性というのが、この手の話では珍しい。漫然と今取り組んでいることしか見えてない男衆と違って、世津は戦争が終わった後にまでビジョンを固めており、ともすれば2人を尻に敷いているかのような諫め方が輝いて見えます。
予告にもある「いっぱい未来の話をしよう」の主体となっているのが、他ならぬ世津なのですね。

しかし、戦争は簡単にその未来の話を閉ざしてしまう。
裕之が軍に戻る直前の羽休めとして3人は海に訪れるのですが、その帰りに突然裕之がいなくなってしまいます。
探しても探しても見つからない。山道を駆け抜けて海にまで戻ると、そこにいたのは海に向かって歩んでいく裕之の姿。裕之は「国の為に戦場に早く戻らなければ」と言いながらも、「戦場に戻るのが怖い。そこで死ぬくらいなら今死にたい」という恐怖に囚われた本心を隠していたのです。
結局、裕之はこの後に特攻隊に志願したことで玉砕し、本当に命を落とすことになりますが、その死は修が前進する意味の一つになります。

このシーンは演じるのが三浦春馬ということもあって別の文脈まで加わり、余計に胸が張り裂けそうな気持ちになってしまいました。
ただ、三浦春馬もまた熱演によってこの世に存在を遺しました。彼の人生に確かな意味があったと本作の演技によって見事に示したのです。そういう意味では本作『太陽の子』が、名実共に三浦春馬の遺作となって本当に良かったと思います。


そして、1945年8月6日。様々な意味を伴った科学者の前進が無為に終わってしまう。
修達の奮闘で実験が少しずつ前に進んだとしても、逝ってしまった者達の意志を背負っても、アメリカの物量と研究人材の豊富さの前では敵うワケがなかったのです。とっくの昔に完成していた原爆を落とされ無力感と絶望に苛まれる荒勝ゼミの面々。
しかし、この期に及んでなお付きまとうのは「科学とはひたすら前に進み続けるもの」という大原則。彼らの役割はもう既に終わってしまった広島跡地を調査して、原子力の研究を進めることとなります。
この瞬間、修達は広島原爆の犠牲者の想いまで背負うことになる。前に進み続ける限り、背負うものがただひたすらに増えていく科学者がいかに業深い稼業なのかが伝わってきます。

あまりに多くのものを背負い、イマジナリー・アインシュタインとの対話を進めた修は遂に科学者として一つの明確な「自我」へと辿り着きます。
それは結局のところ、自分が科学に魅せられ、惹かれたのは実験――その実験の果てに見るその光が、例え破滅に導く光だとしても自分はそれを見届けたい…という「実験の鬼」としての在り方。そしてそんな実験の鬼たる修は荒勝に「3度目の核の爆発」を見届けて、次の研究の礎にしたい旨を伝えます。
その当時、広島と長崎に落とされた原爆は模擬爆弾であり、「本番」として次は京都に落とされるという風説が流れていました。そのため、比叡山山頂に観測所を構えて3度目に投下される核爆発の瞬間を目に焼き付け、次の研究に活かすことを修は進言したのです。
これは実際には荒勝教授が発した言葉とされますが、本作においては修の提案という風に脚色しているのが巧いですね。修からこの提案が出るということは、母や世津が核の炎に焼かれる光景をも実験の糧にする「実験の鬼」としての狂気の覚悟の現れに他ならないからです。

ただし、我々は京都に核が落とされないことを知っています。
8月15日、修の並々ならぬ覚悟は意味を成さぬまま終わり、そして科学者として空っぽになった修はこれからの科学の在り方をイマジナリー・アインシュタインに問いかけながら物語も幕を閉じるのです。


本作は徹底した引き算映画であり、戦争映画では付きものの広島原爆投下の瞬間も、玉音放送が流される光景も一切描写されません。
全ての事象が起こった後の広島に修達は入ってその凄惨さを目の当たりにしますし、山まで来た世津が泣きながら修を抱きしめ、そして現地調査を行っていた荒勝一行の下に修が現れたことで終戦したのだとわかります。至極静謐で、語らないが故の哀愁がある演出です。

引き算映画として特に白眉な演出が、修が比叡山でおにぎりを泣きながら頬張るシーン。
ここの何が凄いってこのシーン、画面には修しか映っていないにも関わらず、先に戦死した裕之のことまで同時に描写しているところなんですよ!!

出兵する裕之のために母親がおにぎりを作る描写が挿入されたにも関わらず、裕之がおにぎりを頬張る描写は一切ありませんでした。家族の元を去った裕之に次のシーンはなく、ただ戦死の報せが入るのみ。この時点では、おにぎりを作る描写を強調した意味が全くわかりませんでした。
しかし、修が泣きながらおにぎりを頬張るシーンを長回しで撮ることで、裕之もまた同じように泣きながらおにぎりを頬張ったことを理解したのです。
「兄(修)/弟(裕之)」は「科学者/特攻隊員」として「自分以外の死/自分の死」を恐れて「おにぎりを頬張りながら泣いた」でシンクロさせる手腕。この瞬間、修の涙には目の前で大事な人や無辜の人々が死ぬことへの恐怖のみならず、裕之があの時感じていた恐怖までもが込められることになります。
この一場面のみで2人の姿を鮮烈に映し出してしまうのは、正に引き算映画の極致ですね。

思えば、おにぎりを頬張った後に修が恐れを成して比叡山を駆け抜けるシーンも、海に行った帰りに裕之が走ったであろう山道のリフレインです。
こうした全体的に静謐で引き締まった演出の数々が、映画に重厚さをもたらし、余計に胸に迫る傑作へと昇華させているのでしょう。終戦の日に向けて、是非観て頂きたい秀作です。

超絶オススメ!!