平野レミゼラブル

映画大好きポンポさんの平野レミゼラブルのネタバレレビュー・内容・結末

映画大好きポンポさん(2021年製作の映画)
4.6

このレビューはネタバレを含みます

【映画とは狂気。映画とはエゴ。映画とは犠牲。そして映画とは夢。】
劇場公開前の試写勢の感想から凄く出来が良いということのみ伝え聞いていたので、原作未読・事前知識ゼロの状態のまま敢えて観に行きました。
そのため、ポンポさんのことを「映画が大好きな化け狸の女の子」と勝手に思い込み、彼女が人々に映画のような幻影を見せて騙くらかしながらも次第に映画作りにのめり込んでいくファンタジー作品……という風に想像を膨らませていましたが全然違いました。
ポンポさんはジョエル・ダヴィドヴィッチ・ポンポネットというれっきとした人間で、ポンポはポンポコって意味じゃなくて立派な苗字だった。年齢不詳だけど作中の映画の都ニャリウッドで華麗に立ち回って活躍しまくっている敏腕映画プロデューサーだった。
そして何より映画作りとは決して楽しいだけではなく、とんでもない苦痛や哀しみを孕んでおり、それを創る側には幸福“ではない”ことが求められる狂気の沙汰ってことが示される凄まじくシビアな現実を描いた作品で度肝を抜かされました。

と言っても、割と作品内での映画作りの描写は厳しそうとかそういうのは一切感じられないんですよね。むしろ、前半は映画作りに邁進する若人たちがその面白さや皆で何かを創り上げる楽しさに目覚めていくという部分が強調され、テンポ良く特に山も谷もないまま和気藹々と進んでいきます。
主に作中で映画作りに奮闘するのは、ポンポさんにその「死んだような目」を評価され見出された映画製作見習いのジーン・フィニくん。ポンポさん曰く「現実世界で満ち足りている人間は創作を逃避に使わないため、傑作を創ることはない。むしろ現実世界で落ちこぼれた劣等生こそ、創作の世界に逃げてそこを際限なく彩ってくれる」とのことで、彼の生来の映画馬鹿ぶりと荒んだ精神性を何よりも見込んでくれます。
さらにポンポさんはもう一人、中々芽が出ない女優志望の田舎娘のナタリーの中に眠るキャラクター性を見抜き『MEISTER』という作品のヒロインとしてナタリーをあて書きした脚本を書き上げます。ジーンくんも同作の映画監督に据え、新人2人を巻き込んだ前代未聞の一大プロジェクトが始動するのです。

この『MEISTER』という映画、これまで巨大モンスターと水着美女というB級ピクチャーを専門に撮っていたポンポさんにしては珍しい骨太のヒューマンドラマでして、内容は傲慢さ故に落ち目となり全てを失った天才指揮者が、アルプスの山々に囲まれた大自然の中で一人の少年のようでも少女のようでもあるヒロインと出会い再生していく…という普遍的かつ王道的なもの。実際、脚本を読んだジーンくんも内容に関してはベタと言いながらも、そのキャラクターの魅力と説得力を評価していました。
よく作中作は、作中での評価に反して面白くなさそうと言われがちですが(面白い作中作があったらそっちを映像化した方がいいので当然ではある)、本作はそれを普遍的な物語としたのが絶妙ですね。調理の仕方でいくらでもショーレース駆け上がるレベルの名作になる雰囲気に富んでいる。

そして、その天才指揮者役にポンポさんが引っ張ってきたのが半ば引退状態と言われていた伝説的俳優マーティン・ブラドック。要はブラドックの復帰作という大風呂敷を、新人監督と女優のタッグに託したんだからポンポさんも相当剛腕です。
10年近くも表舞台に立たなかった大物俳優やポンポさん選りすぐりの凄腕スタッフ達の中に、経験不足な監督と女優が放り込まれたとあらば、待ち受けるは度重なるトラブル……と思いきや、そこはみんな流石のベテラン勢。
ブラドックさんは意外にもフランクで親しみやすいおじさんでして、ジーンの緊張を解きほぐしつつ彼の意見にも真摯に耳を傾けるという俳優の鑑。「監督が現場の責任者だ。俺は君の指示に従う」と言いつつ、「その代わり、俺も意見はじゃんじゃん言わせてもらう」とサポート宣言をして、スタッフ含めた皆の風通しを良くする調整までしてくれるんだから頼もしい限り。いざ演技となれば、その優しさを一切見せないくらいに役に入り込み、ブランクを一切感じさせないスゴ味を出すのも迫力があります。
この辺り、映画吹替も多くこなす大塚明夫さんの演技の説得力が凄まじく、まだ声の演技に慣れ切っていない清水尋也さんや大谷凛香さんの初々しさとの対比もバッチリです。

ここまでお膳立てをされれば、あとはもうひたすら映画が創られる過程を彼らと一緒に楽しんでいく流れになります。
何度も予測外のアクシデントが起きますが、その都度ジーンくんやナタリーちゃんの奇想とも言えるアイデアでより良い画を撮ることに成功しますし、ブラドックを初めとしたベテラン一同も無茶ぶりとも言える要求にプロ意識を以てしっかり応えてくれる。
その最たるものが羊小屋の屋根の修繕で、撮影中に壊れたという偶然のトラブル、それを直すシーンを入れるリカバリー、さらにそこからナタリー→ブラドック→スタッフ達と連鎖的にアイデアを付与させることで出来上がる「泥塗れになる主演2人」の名場面……この辺り、皆で一つのモノを創り上げるという喜びに満ち溢れており、その時ジーンとナタリーからは新人という括りが消えて真の一体感を得るに至っていました。

映画撮影映画ということもあって、本作は演出もかなり凝っています。
この撮影に至る前の段階から多種多様な編集が施されているんですね。例えば運転時にワイパーを作動させたらその動きに合わせてシーンが切り替わるとか、ジーン→ポンポ→ナタリーの三者の視点に合わせて同じ場面を巻き戻して繰り返したりとか。まるで全盛期のガイ・リッチーのような遊び心とリズムが盛り沢山で観ていて飽きません。
むしろ初見じゃ確認しきれないくらいの情報量がワンシーンどころかシーン切り替え時にまで詰まっているため、何回も観返したくなる魅力に溢れています。
ぐぅ…入場特典の漫画冊子が週替わり前後編に分かれていた時は「なんてアコギな商売…!」って正直思ったのに、こうも楽しい仕掛けを施されるともう一度観に行かざるを得ないじゃあないか……!でも、ぶっちゃけ1冊で完結させないのは相当にアコギだと思うよ、僕ァ。

それはともかく、クリエイターにはストレスが必要と言っていた割に物語自体はストレスフリーで、軽妙かつ楽しげな演出を伴ってスピーディーに展開していくんですね。それはそれでとても楽しいし良いんですが、一方であまりにトントン拍子にクランクアップまで進むので物足りなく感じるのも事実。
……しかし、これこそが本作が仕掛けた最大のミスリード。映画の花形たる「脚本」、「演技」、「撮影」全てが前座に過ぎず、続く「編集」こそが真のテーマにして深淵、そして映画監督という存在の業の深さを表すモノとなって牙を剥いてくるのです。

この手の映画創り映画で「編集」にスポットが当たることって珍しい気がするんですが、考えてみればこれ映画で一番重要な部分です。
いくら素晴らしい演技や美しい映像が沢山撮れたからって、それらを何十時間もそのまま流しても不思議なことにそれは「映画」じゃないんですよね。面白くもなければ、誰の心を打つワケでもない。そんなモノは単なる無意味な映像の垂れ流しです。
そういった単なる映像の羅列に明確な指向性を持たせ、そして「映画」に仕立てる役割こそ映画監督です(もちろん監督と編集で役割分担している作品はごまんとありますが、明確に道筋を定めるのは監督の役割。因みにポンポさんの会社は監督が編集を兼任するのが慣例)。

ジーンくんにとって「編集」は一番楽しみにしていた作業でした。というのも、彼が監督を務める前にポンポさんから任されていた仕事というのが、90分の映画を15秒でまとめて伝える「映画CM」の製作であり、膨大な情報量をいかに整理して自分の映像作品に仕立てるかという部分に何よりの面白さを感じていたからです。
あるいは、敢えて本編にない画面を組み込むという奇想によって、ポンポさんからはじめて認められた印象的な仕事だったというのも楽しさを感じていた理由かもしれない。
どちらにしろ、映画馬鹿であるジーン君にとって、素晴らしき映像の数々と向き合って潜水していくその作業は何よりの至福の時……の筈でした……

実際に体験するそれは映画という荒波に逆に飲み込まれ、溺死寸前にまで追い込まれる地獄の責め苦なのです。
72時間という膨大な映像の波の中ではどのシーンもが名画に思え、どの芝居もが切り捨て難い名演に見え、どこを切っても作品として破綻するのではないかという恐怖に怯えることになる。
あの何よりも幸福で満ち足りていた筈だった撮影の時間が、ここに来て耐え難い苦悩の時間へと変貌するのです。ポンポさんが言う「幸福は創造の敵」の体現。

ここでジーン君が迫られるのは「どこまで切り捨てられるのか」という選択です。
それは単に時間尺を切り捨てるということではありません。この映像を生み出すにあたって込められた多くの人の想いや労力、そして時には愛ですら容赦なく切り捨てる必要があるという残酷な選択。
無限に続くその選択は確実にジーンくんの精神を摩耗させ、そして遂に自らの人間性をも切り捨てることを求めだします。これまで切り捨ててしまったらいよいよ戻れなくなる。多くの人を裏切り、そして作品の根底をも破壊してしまうかもしれない。
何度も何度も苦渋の決断を繰り広げた結果、ジーンくんは遂に人間性をも切り捨て「映画」をそれに携わった誰のモノでもない、自分のモノだと結論付けるエゴイストへと覚醒を遂げます。

世間的にエゴイストは忌避されるモノですが、創作者にとってはそうではありません。
己の内に迸る欲望を外へと吐き出し、それこそ至高のモノと信じて疑わない自己愛と肯定力を以て形にしたもの、それこそが創作物なのです。そうなると創作者に一番必要な資質というのは、誰よりも自惚れられるエゴイストであることであり、そして己がエゴを貫ける強さを持つということなのです。

考えてみれば名匠と呼ばれる人種は、誰もが人智を超えるレベルのエゴイストでもありました。
日本が誇る或る名匠は、撮影時に邪魔になる民家の2階部分を取り払わせるという究極のエゴを発揮。「あの山、どけ」「海よ、笑え」「森、動かせ」などの発言も考えるに、神の領域に達したエゴイストと評して良いでしょう。

そして、そんなエゴイストの一端となったジーンくんはポンポさんに、これまでやってきた作業を白紙に戻した上での追加撮影を依頼します。このままでは「俺の映画」には成り得ない。「俺の映画」にするためにはピースが足りない。コストやスケジュールや納期諸々の事情は重々承知の上で、「俺の映画」を完成させる為に協力して欲しい、と。
他者の都合や他の創作者の矜持を全く考えないどころか踏み躙りさえする、あまりに身勝手な提案です。しかし、ジーンはもうエゴイストに成ってしまった。本物の創作者に成ってしまった。そのことを悟ったポンポさんは、この創作者(エゴイスト)の無茶ぶりに見事応えてみせます。
ここら辺の流れは、以前の撮影時と同じくトントン拍子に。途中、『半沢直樹』ばりの銀行パートで綺麗事である「夢」が語られますが、やはり編集パートになった途端に創作者(エゴイスト)はその綺麗事の為に多くのそれ以外を切り捨てる修羅と化すのです。

この最後の編集作業、無駄を切り捨て、情を切り捨て、思い出を切り捨て、愛を切り捨てるジーンくんの覚悟でウルッとしてしまった。決して泣かせるような演出にはなっていないにも関わらず。
この作業を見守るナタリーちゃんのリアクションが効いてきていて、彼女は「ファーストカット」や「ブラドックとの初めてのやり取り」といった自分にとって何より大事な場面が切り捨てられることを素直に哀しむんですね。しかし、それを消すジーンくんの手もまた震えていることに気付いてしまう。自分にとっての「大切」を無情に切り捨てるエゴイストもまた、自分の身をも文字通り断腸の思いで切り捨てている。このことに気付いたからこそ、ナタリーはジーンのエゴを肯定し、共に映画の完成を見届けることを宣言します。

切り捨てに次ぐ切り捨て……当の昔に人間性は切り捨てた、多くの犠牲は割り切った、自らのエゴはその中で鍛え上げた。
そして、この切り捨ての果てに「泥塗れの名場面」が現れたところで思わず声を上げてしまいました。それはあの幸福な日々の中でも特別幸福を感じた瞬間。ジーンも、ナタリーも、ブラドックも…その場にいた全員で創り上げたという実感が沸いた何よりも素晴らしい宝物……

一瞬の逡巡の後、それすらも創作者(エゴイスト)は切り捨てます。
一切の容赦もなく。
己が作品の為に。
己が業の為に。
己が夢の為に。

この瞬間に耐え切れず、嗚咽が止まらなくなってしまった。
映画とはどうしてこうも儚く、狂気的で、そして何よりも美しいのだろう……
切り捨てるというプロセスを何よりも丹念に描いたからこそ、『映画大好きポンポさん』は単なる映画創り映画に留まらない、映画監督という業深き生き物の聖域へと至ったのです。

そういう意味では本作、僕が常々思っていた「映画に映画監督は本当に必要なのか?」という疑問に対して明確な回答を示してくれた作品でもあります。
極論、映画なんて良いホンと良い役者、そしてそれらを引っ張るプロデューサーと素晴らしいスタッフがいれば出来るって思っていたんですよ。それこそ出来の良い脚本に忠実にシーンを引っ張ってきて切り貼りすれば、「映画」という体で世にお出しできると。

ところがそうじゃなかった。
大間違いだった。
『映画大好きポンポさん』は映画監督の役割を、脚本、役者、プロデューサー、スタッフそれら全てを切り捨ててでも、強引に己の作品に仕上げて全責任を背負うエゴイストと定め、「映画監督は映画に絶対に必要」と回答したのです。
最終的に「映画」を「映画」足らしめるのは、冷酷無比に切り捨てる一種の独裁者である映画監督なんだということを突きつけてきたのです。

思えば『MEISTER』の主人公が指揮者って言うのも示唆的で、というのも指揮者もまた映画監督同様にその存在意義が問われる役割だからです。
極論、素晴らしいオーケストラさえいれば素晴らしい演奏は聴くことが出来る。
しかし、それは演奏であっても「音楽」ではないのです。垂れ流されるだけのただの音でしかない。奏でられる音を強引に己のエゴを以てまとめ、支配し、そして自分の意に沿って演奏させる独裁者たる指揮者がいなければ演奏は「音楽」足り得ないのです。

僕の愛読している吹奏楽漫画『SOUL CATCHER(S)』でも指揮者の役割について以下のように触れています。

「『自分の指揮が間違ってるかも?』っていう不安もあるでしょ。自分に従わない音楽の先輩たちに圧倒され振り回されることばっかりでしょ」「そんなもん関係ないのよ」「それら全て!!響の音すらねじ伏せる!!」「自信と強引さを持ちなさい!!それが指揮者だよ!!」

指揮者もまた演奏する全ての楽器を強引に従わせ「自分のための音楽」をやる為のエゴイスト。作中で世界の指揮者と呼ばれる人物もまた「ブレない確固たる一つの世界」を持ち、自分勝手に振る舞いながらも心地いい音楽を作り上げます。
やはり何よりも重要なのはエゴなのです。

そして、そんなエゴを『映画大好きポンポさん』では監督以外の誰もが覗かせていることにもニヤリとさせられます。
女優ミスティアは、特殊メイク&偽名で別人に扮して『MEISTER』の追加撮影分の役者として参加しています。何故わざわざそんなことをするのかと言うと、将来ジーン&ナタリーの作品にメインキャストとして関わりたいから。いつか来るべきその日、実力だけでその役割を勝ち取らんとする野望を持つ彼女は、今回ばかりは別人として出演するのです。
この決意を語る時のミスティアは、いつものにゃあにゃあ言っているゆるふわお姉さんではなく、眼光鋭い女優というエゴイストそのものでした。

我をいかに通して多くの人に届けられるかという創作者の業(エゴ)なくして創造は有り得ないということ。そして、その業(エゴ)がもたらす痛みや苦しみをも描写して、乗り越えた先に待っている感動を『映画大好きポンポさん』は描き切りました。

映画とは狂気の産物。
映画とはエゴイストの業そのもの。
映画とは犠牲を伴うもの。

決して綺麗事ばかりではない。
本作は綺麗事も沢山描いてきたけれど、それらを塗り潰すだけの漆黒の葛藤だって沢山あった。
けれど、それらを乗り越えた先に出来た「夢」の結晶こそ、そこまでしてでも手に入れたかった「映画」の歓喜そのものなのです。


この映画で一番秀逸な部分は何かって、そう聞かれた場合の回答が自然とニャカデミー賞を取った時のジーン同様の「上映時間が90分間なところです」になることなんですよね。
これだけ詰め込んでたったの90分!!という驚き。
ポンポさんの理想をそのまま再現した有言実行っぷり。
そして、何よりこの90分がやはり作中のジーン同様に血涙を流しながら切り捨てまくった結果だろうということが、ある種メタ的な感慨をもって伝わってくるワケです。

超絶オススメ!!