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ドライブ・マイ・カーのyamadakabaのネタバレレビュー・内容・結末

ドライブ・マイ・カー(2021年製作の映画)
2.0

このレビューはネタバレを含みます

村上春樹の短3つの編小説「ドライブ・マイ・カー」「木野」「シェエラザード」を原作する物語。
3つの原作は「女のいない男たち」に収録されていて、男たちの喪失と残されたものを描いている。
(「女のいない男たち」はバラク・オバマが「2019年のお気に入り本」にも挙げた)

・最愛の妻を亡くした家福。妻は家福を愛していることに疑いの余地はなかったが、ほかの男と肉体関係も持っていた。夜に話したいことがあると言ったその日、くも膜下出血で帰らぬ人となる。

物語が進むにつれて、「生きること」を巡って会話が交わされていく。それが「ワーニャ伯父さん」の物語とも重なりあって、この映画が持つ人生観が語られていく。
「ワーニャ伯父さん」も、登場人物が絶望に陥るが、苦悩しながらも死ぬことではなく生きることを物語だ。

劇中劇チェーホフ「ワーニャ伯父さん」を通して、家福とみさきの関係が重ねられる構成にになっている。
ワーニャと姪ソーニャの関係は、家福とみさきに対応。みさきは、ソーニャのセリフ「どうして私はこうも不器量に生まれついたんだろう?」という台詞に、自分を見る。家福も、ワーニャの「私はもう四十七になる。六十で死ぬとして、これからあと十三年生きなくちゃならない」という台詞に自分自身を重ねる。
ソーニャが語る人生訓が、家福の生き方に影響を与える。


・演出方法も独特で興味深い。
それぞれの役にサブテキストを書くのが濱口流。脚本にはないバックボーンの設定があることで、物語に深みが出るそう。
感情を抜いてセリフを繰り返し読む「濱口メソッド」も。劇中劇の本読みでは、普段のメソッドが再現されている。

濱口監督は、映画の「原理原則は、古典映画に倣って、カメラを一番ものごとがよく見えるところに置くことです」と言う。そうすることで、役者が演技することで生まれる相互反応を掴み取る。
撮影は、『きみの鳥はうたえる』をはじめ三宅唱監督とのコンビが多い四宮秀俊。フレーム感覚=人物との距離の取り方やレンズの選択を濱口監督は絶賛している。

・原作の「ドライブ・マイ・カー」には濱口監督曰く「“声”について非常に真実と思えることが書いてあった」そう。高槻というキャラクターを表現した文章だ。「高槻という人間の中にあるどこか深い特別な場所から、それらの言葉は浮かび出てきたようだった。ほんの僅かなあいだかもしれないが、その隠された扉が開いたのだ。彼の言葉は曇りのない、心からのものとして響いた。少なくともそれが演技でないことは明らかだった。」この一節が、映画化のスタートになる。



・この映画では、残された人間はどう生きるか?そんなことを描いているように感じる。
演劇の中でソーニャは言う。死ぬまで生きるしかないと、最期が来たら大人しく死んで、辛かった苦しかったと申し上げようと。
妻を助けることができず、喪失を抱えた家福が、ワーニャのテキストを受け入れ演じることで、生まれ変わっていく。

生き残った人間はその辛さをなくなった人に由来するものにしてはいけない、自分の責任として生きていかねばならない。そんな風に言っているように思う。
いま世界にいるみんなは、すべてみんな誰かしらに残された人であることを、改めて思わされた。
そんな映画でした。
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