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尼僧ヨアンナのhorahukiのレビュー・感想・評価

尼僧ヨアンナ(1961年製作の映画)
4.7
鐘は鳴り止む…

すんごい大傑作!!カンヌグランプリの悪魔憑きホラー。天使の異名を持つ尼僧長ヨアンナが悪魔に憑かれてしまう。それがウィルスのように他の尼僧たちに広がり地獄化した僧院を鎮めようと、悪魔祓いにやってきた神父が、ミイラ取りがミイラに…的に善と悪の境界を見失っていく神父個人の内面劇!

善悪がうんたらとか言ってるけど、オッサン童貞神父が美人なヨアンナに惚れてしまって、童貞故に拗らせた「愛情」が超絶迷惑に暴走しちゃうお話。生涯かけて実践してきた信仰がその拗らせ具合に拍車かけちゃう感じ。君のためなら僕が犠牲になっても良い!とか言葉だけ聞くと少年漫画みたいでカッコイイけど、ハゲ散らかしたオッサンだからね。拗らせ過ぎだわ…😂

原作が最強に面白い大傑作なので、ほぼほぼ魅力を損なわずに映像化した本作も当然面白かった。媒体変更による表現上の損失は程々に利益を増大させる独自イマジネーションが追加されている箇所がゾクゾクするほど素晴らしい!ただ、自然風景等の外的要因全てに「悪魔」を見出し始める神父のクライマックスの心情表現部分を大幅にカット(急激なカメラのブレで代弁?)したのは少し疑問で、この辺りはハイパーテキストの強みを存分に見せられる箇所であったはずだから勿体無い気はした。

緑とカラスの対比、僧坊での罪のある暮らしと孤独の地獄等、原作にあった尼僧院に向かう神父の信仰に対して揺れ動く心情を大胆に省略し、五体投地を逆十字のように見せるファーストカットの心的両義性と、「悪魔」で満たされた宿屋での明らかに自信なげな神父の様子(目の微妙な動きや責め苛なむ(ように心が見せる)人々を見る主観ショット、縋り付くような苦し紛れの祈り)に的確に代弁させている。

更には、厳格な父親を象徴させるムチ(映画ではその背景事情は「壁にかける」という行為によって必要十分に意図のみを推察させ省略)を持って自分を打つことの信仰ブースト演出により心の平穏をもたらせ、ヨアンナとの出会いによって心の奥から顔を出し始める「蜘蛛」との心の中での光と闇の綱引きを繰り返す中で、悪魔とは何か、人間らしさとは何か、人間とそうでないものの境界とはどこかを、非人間化とも言える信仰という抑圧の中で内面に向かって本作は自問し続ける。

絵画的な観客の視線誘導を意識した構図も素晴らしく、画面を滑る観客側の目線の動きによって支配する主従とキャラ(アイテム)との応答を意識させ、それにより多重的に意図を上乗せしていくのがすんごいグッとくる!直線(というより点と点を意識した対角線)の距離の詰め方とシーンを跨いだ変遷、並列配置を避けた斜線を徹底したワンクッションを頻繁に持たせる会話と構図上の重なりにも主題をキッチリと反映させているように感じる。罪の象徴たるモチーフを背後にし、その距離感に願望と弱さを投影させ、その後の接近と強烈な刻印等で内なる戦いを滲み出させるのも的確!

そしてギリギリという左右の揺らぎのみが支配するあの服のベール越しのシーンよ。ここ数年で一番心を揺さぶられたシーンは?と聞かれたらコレを答えると思う。何でここまでゾクゾクするのか全くわからないのだけど、このシーンが最も内面へと至る胡桃の奥に接近したシーンだからじゃないかなとは思う。こういうのに出会いたいから映画見てるまである!

ハトと尼僧たちの相似→飛び立つハト→人は奇妙な鳥→何度も登場する窓の外を見つめるシーンや格子や柵で自由を悪魔側にのっからせるのもしつこいけど的確だし、ラストの「無音の鐘」に込めた多義性と皮肉と厭世感の素晴らしさったらないよね。どんだけ乗せれば気が済むの?ってレベル😂何から何まで超丁寧!ほんとすんごい作品!!
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