Shingo

キャラクターのShingoのネタバレレビュー・内容・結末

キャラクター(2021年製作の映画)
2.6

このレビューはネタバレを含みます

ワンデーパスポートでの鑑賞3本目。

漫画の影響で殺人事件が起こる…。そんな漫画を描いて許されるのか?という社会的テーマも含んでいないわけではないが、あえてそこは気づかないフリをしているとも言える。
あくまでフィクション、サスペンスとして楽しむのが正解なんだろね。

本当なら、実在の殺人事件をそのまま作品にする時点で不謹慎と言われるし、漫画に描かれた事件が実行されたら、ワイドショーでも大きく取りあげられるだろう。
犯人を目撃した事実を黙っていたことも、捜査妨害、犯人隠匿の罪に問われかねない。仮に罪にならなくても、刑事がそれを笑って許すとは思えない。犯人が野放しになったせいで、次の犯行が起きてしまっているのだから。

殺人鬼である両角(もろずみ)は、無戸籍児である過去が明かされるが、この設定はドラマ「MIU404」に登場した久住と同じだ。国から存在を認識されていない久住は、だったら何をしようと自由でしょ?とゲーム感覚で犯罪を繰り返す。そして、逮捕されても「俺はお前たちの物語にはなってやらない」と黙秘を続ける。
これは、両角の「逆に聞きます、僕は誰ですか?」という問いと同じ意味を持つ。我々は、凶悪な事件が起き犯人が捕まると、生い立ちがどうだったか、いじめを受けていたか、動物虐待をしていたかなど、その人物像を知ろうとする。しかし、それは「物語化」することで、安心をしたいだけだ。何もわからないままなのが、一番困るのである。
そして、久住を演じたのが他でもない菅田将暉であり、本作で演じた山城は両角となかば同一化してしまうのだから、面白い。

両角という「キャラクター」は、意図的に意味不明な存在として登場している。犯行の動機も、それが何を意味しているかもわからない。本名も年齢もわからない。おそらく、過去にも同様の殺人を繰り返していると思われるが、捜査線上にあがってこない。辺見との関係も不明だ。
それはある意味、「キャラクターがない」ということだ。空っぽで透明な彼の周囲を血で赤く染め上げることで、ようやく輪郭が浮き上がってくる。しかし、その空洞には確かに、何かが存在しているはずなのだ。

殺害の場面はかなりエグイが、それよりも両角が殺害後に両手を怪我しているのが、なにげにリアルさがある。鋭利な刃物を使っているとはいえ、手がすべって自分の指を切ったりしてしまうのだろう。殺害を行った後は、二日は起き上がれないくらい疲れるというのも、妙にリアリティーがあり、不気味だ。

山城は漫画家として自分に才能がないことに気づき、夢を諦めようとしている。昨今は「夢をかなえる」よりも「夢を諦める」物語が流行りのようだ。奇しくも、「花束みたいな恋をした」「コントが始まる」は同じ菅田将暉が主演だが、彼は「夢を諦める」のがそんなに似合う男なのか。まあ、本作では一発あててタワマンに住んでいるから、「夢をかなえた」ことにはなるが、すべて実力でとは言いがたい。
両角は、「あんただって漫画の中で人を殺してる」と言うが、ある意味ではそのとおりだ。殺人というのは、基本的にやったもん勝ちであり、後から警察に捕まろうが死刑になろうが、すでに目的は達成されてしまっている。
同様に、殺人事件をネタに漫画を描くことが倫理的にタブーであっても、描いてしまったもん勝ちなのだ。後からどれだけ非難されようと、目的は達成されている。だからこそ、「描く」という誘惑には抗うことはできない。

山城は電車の中で、車内の人間をスケッチし続け、資料となる家の外観も、街灯の下でスケッチをする。それは単に、技術力アップのための練習ではなく、自分が感じたものを表現してこそ、描く意味があるからだ。
そして、感じたものを表現しないではいられない。殺害現場を目撃し、犯人の姿に衝撃を受けてしまった以上は、どうしてもそれを描きたいと思う。
「岸辺露伴」いわく、「体験こそが作品にリアリティーを生む」のだ。

ワンデーパスポート1本目に「HOKUSAI」、2本目に「クルエラ」を鑑賞したが、すべて「表現」しなくては生きられない人たちだ。その姿はある種、狂気に満ちている。
では、殺人を表現するというのは、表現たりえるのか?それを表現することに喜びを感じるのは、異常なことなのか。はたまた、その作品を読んで楽しむことは、殺人を楽しむことと同義であるのか。
境界線を引くことは、なかなか難しい。

ドラマ「レンアイ漫画家」の刈部は、「読者の人生を背負う覚悟で漫画を描いている」と言い切る。自分のため、あるいは依頼者のためだけに絵を描くなら、どこまでも自由であっていい。しかし、世の中に広く届けるために描くのなら、そこには「人生を背負う覚悟」が必要なのかも知れない。
山城は、その覚悟がないまま実際の事件を作品にしてしまった。彼は、体験した出来事をまず自分の中で消化し、何を読者に届けたいのか、届けるべきかを考えなければならなかった。それを怠った結果、犯人自身がキャラクターと自分を同一視し、自分を作品の一部と錯覚してしまったのだ。

ところで、両角を演じたFukaseを目当てに、セカオワのファンと思われる女性が多数、劇場に足を運んでいるようだが、席をたつ時に聞こえてきた感想は、だいたい「グロい」「きつかった」という声だった。
私はといえば、Fukaseの髪型とかが「勇者ヨシヒコ」のメレブ(ムロツヨシ)っぽいなと思っていました、ごめんなさい。

あと、「HOKUSAI」で筆を白い紙にすべらせ、筆先をふっと吹いて波飛沫を表現するところと、山城が筆先を吹いて血飛沫を表現するところ、ダガーの顔を下書きなしにGペンで一発描きするところが、重なって見えた。漫画のルーツは、やっぱり浮世絵にあるよなって。
デジタルになって、その技術も失われちゃうのかな。
Shingo

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