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私は死んでいない
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『私は死んでいない』に投稿された感想・評価

[時間も輪廻も幻想も生者も死者も混ざり合う温かな愛の旅] 100点

人生ベスト。ジャン=シャルル・フィトゥーシ長編六作目。長らく"聖杯"リストのトップを守り続けていた伝説の映画。物語は科学者シュタインによって創造された人造人間アリックスという27歳の女性が、意図的に省かれた感情である"愛"を探す旅を中心に、様々な段階の"愛"を様々な人間の中に見出す三部構成の群像劇である。第一部ではアリックスと彼女が一緒に暮らすアレクシやその周りの人物たちが"愛"について語る哲学的な物語となっているが、第二部以降は大きく"転調"していく。第二部ではフレデリックという男が主人公となる。彼は最近妻のステファニーと別れたばかりで、彼女には新しい恋人までいるのに、未練タラタラで彼女に迫っている(ベッドで寸前までいったときのステファニーの頭上に平然と置かれた黒猫のステファニーっぽさは異常)。あまりにも未練がありすぎるので、妻を幻視する始末。この、パンすると妻がいて、フレデリックに戻って再度パンすると現実が訪れるという、ワンカットに現実と妄想が共存する感じ、或いはベランダから飛び降りた次のカットで別の家のベランダに飛び入るという超自然的な繋ぎ方など、エッセンスはダニエル・シュミットとかマルコ・ベロッキオにも似ているのかもしれないと思うなど。フレデリックはイタリアで訪れた浜辺でヤコポという少年に出会い、彼がフレデリック老人(第二部主人公がFrédéric=CフレデリックでこちらはFrédérick=Kフレデリック)という人物と共に約束の女性を探す旅をしてきたことを語り始める。ヤコポ少年はCフレデリックの過去、Kフレデリック老人はCフレデリックの未来を表しているかのようでもあり、時間も因果も輪廻も全てが混ざり合って、それぞれの愛の形が語られていく。また、第一部で語られバンドデシネが何度か登場するタンタンの存在=両親がおらず自由である存在がヤコポに重ねられている他、彼の飼っているロバがガスパールなのも象徴的だ(ガスパールはバルタザールと同じ東方三博士の一人)。第三部では冒頭で触れられた、昏睡状態の母親の世話をする末娘エレーヌの物語が、第一部のアリックス、第二部のフレデリックの物語の終結に絡んでくる。両親のいないアリックス、登場しない病気の父親がいるフレデリックと対比されるように、昏睡状態の母親はエレーヌの前に頻繁に姿を表す。ここでは生者と死者すらも曖昧で(そういえばCフレデリックは飛び降りたはずだしアリックスは人造人間だった)、エレーヌもその三人の姉も、姉の子供の全てが同じ魂の別の時間を切り出してきたかのような美しさがある。そして、あのラスト。忘れ得ぬ、エレーヌの眼差し。

元々はTV用に製作した『土星神(Le Dieu Saturne)』という中編作品が不本意なまま終わりを迎え、ここに登場した人物たちの人生はまだ続いている!と考えたところから企画がスタートしたらしい(実際に監督の友人というフレデリック・ボンパールが本作品でフレデリック役として出演している→後述)。そこに、パウロ・ブランコが"100万ユーロで好きに撮ってくれ"と颯爽と現れるも、製作会社の経営がどんどん傾いていき、最終的には倒産したため、撮影の規模もどんどん縮小していった。倒産したときには機材もクルーも確保済みだったため、自分の好きな8月のパリを撮ろうと決めて第一部から撮影が始まったらしい。このように即興で始まったプロジェクトだったおかげで、監督は脚本も書かずに全て即興で映像を作り、演者やクルーがやってくれたことを受け入れることで撮影が進んでいった。プロとアマが入り乱れる環境は、プロ俳優のアレクシ・ロレには合わなかったらしく(一つ目は監督の指示がないこと、二つ目は周りのアマ俳優がテイクを重ねるごとに上手くなることが嫌だったと監督は推測していた)、撮影途中で抜けてしまったようで、アレクシは第一部以降は唐突に失踪したことになっている。監督はこの"主人公クラスの人間がいなくなった"という事実すら、クルーに説得されて受け入れた。ここで、出演したいと言って撮影にも少しだけ参加していたフレデリック・ボンパールに白羽の矢が立ち、結局彼が第二部以降の主人公の一人として撮影が続けられた。ボンパール以外にも人物再登場の手法が用いられており、最新作『カヴァティーナ』にはシュタインが登場している。

また、師匠ジャン=マリー・ストローブもヤコポ少年の旅に一瞬だけ登場している。彼はいきなり"オキーヨ!!!"と叫び始めるが、これは尊敬する溝口健二『山椒大夫』における"厨子王!!"を再現したかったらしいのだが、日本語が分からずにこうなったとのこと。

★以下、ネタバレあり

あの印象的なラストは12分間の長回しで、ちょうどフィルム2本だけ残った状態で撮影を始めた。墓地に一人で佇む母親、先立った夫に呼ばれてフレームアウトし、カメラがパンすると葬儀が営まれていて、参列者が解散するとエレーヌが母親のいた位置で立ち止まり、こちらを覗き込む。ここで明白に二人が同じ位相で重なり合ったような気がした。撮影時はテイク1のときに参列者エキストラが貧血か何かで倒れてしまい、介抱していたら日没が迫ってきていて、大急ぎでテイク2を撮っていたら撮影中に日が落ちてしまったらしい。あまりに素晴らしかったのでそのまま撮影を続けたかったが、普通は中断するような状況だったため、師匠の教えに従って同時録音していたためDPにも演者にも撮影続行の指示を出せずに祈っていたのだが、その場にいた全員が撮影を続行したらしい。監督はこのエピソードについて、神からの贈り物だと言っていたが、私も同行者も"映画全体がな…"と思うほど奇跡的な瞬間に満ち溢れていた。仙台まで行った甲斐があった。
出来事が進行しているのではなく、存在がどのような条件で成立しているのかだけが持続的に提示されている。物語は結果であって前提ではない。むしろ前提そのものが剥き出しにされ、その上に仮設的に人物や関係が置かれていく。

アリックスは生きているのではなく、成立している。内面や記憶によって自己を支えるのではなく、ある配置の中に置かれることで一時的に同一性を与えられる。このとき主体は自律的な中心ではなく、条件の束としてしか存在しない。人格は深さではなく、接続の仕方として現れる。

恋愛もまた同じ水準に引き下ろされる。感情が関係を生むのではなく、関係の配置が感情を生成する。愛は内面の真実ではなく、特定の条件下でのみ発生する出来事に過ぎない。そのため関係が変われば感情も断絶し、持続するのは経験ではなく構造だけになる。

創造の回路が露出した瞬間、この世界は閉じた現実であることをやめる。存在は与えられたものではなく、操作可能なものとして現れる。誰かが作っているという事実よりも、「作られうる」という状態そのものが問題になる。ここで現実と虚構の差異は意味を失い、両者は同じ生成の平面に置かれる。

時間もまた進行ではなく配置へと変わる。過去が現在を規定するのではなく、複数の状態が並置されることで、存在のバリエーションが示される。連続性は必須ではなく、むしろ断絶こそが存在を成立させる条件として機能している。

「私は死んでいない」という言葉は、生の継続を主張しているのではない。存在が一度きりの不可逆的なものではなく、何度でも生成し直される可逆的な構造に置かれていることの表明に近い。死とは消滅ではなく、単なる構成の解除でしかない。

この作品が露出させるのは、存在の軽さとその恣意性。主体、感情、時間といった通常は自明とされる基盤がすべて条件へと還元されることで、人間は実体ではなく「成立の様式」としてのみ捉えられるようになる。観る側もまたその外部にはいられず、同じ条件の中で暫定的に成立しているに過ぎない、という位置に引き込まれていく。
テーゼそのものにジル・ドゥルーズの存在論の影響を強く感じる、あまりに精緻で美しい作品オールタイムベスト。
4.3
ひたすら長くはあるがあまりにも良いシーンがあった。

謝った息子をフレデリックが抱きしめ背中を撫でる。あの音。そしてあの瞬間的な緊張の弛緩は、二人が本当の親子であることに由来していたのだと納得した。

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シナリオ

上映日:

2025年09月05日

製作国・地域:

上映時間:

18分
3.9

あらすじ

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