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仮面/ペルソナの小のネタバレレビュー・内容・結末

仮面/ペルソナ(1967年製作の映画)
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このレビューはネタバレを含みます

「ベルイマン生誕100年映画祭」にて鑑賞。「神の沈黙」三部作加えた本作が特集上映分類の「中期Ⅱ」で、その最後。

神だ、科学だ、芸術だと自分の外側にうつつをぬかしてきたベルイマンは「神の沈黙」三部作で気が済んだのだろうか。本作ではそうした外側と別れを告げ、自分の内側に目を向ける。 

特集上映のチラシによれば本作の内容は次のよう。

<失語症に陥ったスター女優と、彼女を看病することになった看護婦。海辺の別荘でふたりだけで生活していくうちに、お互い自意識の“仮面”が剥がされ、溶け合い、交錯していく…。「映画」と名付けられる予定だった本作は、ベルイマンによる映画論だ。>

ということなのだけれど、以下から自分勝手な解釈を書いていこうかと。

まず根本的な問題として人の「欲望」が「現実」と完全に一致することは絶対にない。人は生きていくために、多かれ少なかれ自身の欲望を抑圧し、他者の意志や価値観に従わざるを得ず、その葛藤が不安、怒り、悲しみとなるのではないかと思う。

まれに欲望と現実が一致することがあると、楽しいとか嬉しいといった気持ちになってくるのだろう。本心からご機嫌でいる時間が長い人というのは、欲望と現実のギャップが小さいのだと思う。

いずれにしても人は欲望と現実のギャップから生じるストレスを緩和するため、自分の気持ちを合理化しなければならない。西洋の方法論は、自分の外側に神という概念を設定し、そのギャップは超越的で絶対的な神の思し召しだから仕方がないと受け入れるというものだろう。ただこの方法は神が存在すると思うことが大前提だから、語りかける(祈る)ことによって神がいると思い込もうするのではないか、と。

ちなみに「私とは何か」と自分の内側に絞って考え続けてきた東洋の場合は次のような方法論だろう。
(参考文献:飲茶「史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち」(河出文庫))

「私とは認識するもの」であるのだから「私は私自身を認識対象にできない」。即ち「私」は、何に対しても束縛されないし影響も受けない。殴られて、身体が痛いという感覚を認識することはあるけれど、「私」が傷ついて痛むことはありえない。だってその痛みを「認識するもの」が「私」だから。

例えていうなら、現実とは「映画」であり、私とは「観客」であるのだから、現実が私と同一であることありえないし、映画が観客に何ら危害を加えることがないのと同じように、現実が私に危害を加えることはない。

ということで、あらゆる不幸は「私とは認識するもの」であることを知らないことによるカン違いである、と。そしてこのことは言葉でわかったつもりになっても理解したとはいえず、体験的に理解する、つまり悟りよって得られる境地なのだ。だから、ひたすら(只管)座禅をしたりして、その境地を得ようとするのですな。

という長い前置きを踏まえ物語を考えてみると、看護師のアルマは自身の欲望と現実(社会的価値観)とのギャップがエリザベートに比べ小さいということなのか、「あの人と結婚する自分は幸せ」みたいな現実肯定的なことをつぶやく一方で、得も言われぬ不安を抱いていることも漏らしたりもする。

記憶違いかもしれないけれど、アルマは神なんて信じない、みたいなことを言っていた気がするから、神が欲望と現実のギャップを緩和する存在として機能していないことが前提(間違ってたらスマセン)。よって2人は神にすがることなく、自分自身で悩みを解決しなければならない。

さて、アルマは、失語症を治すために良かれと思い、エリザベートに色々語りかけていくのだけれど、相手が何も言わないことで気を許してしまったのか、身の上話を赤裸々に語りだし、抑圧していた欲望を表出して、すっきりしていく。

一方、大女優になってしまったせいか、自分の本当の姿(欲望)を表(現実)に出せなくなり、欲望を強く抑圧したため失語症になってしまったエリザベートの内面は、目の前で内面をさらけ出しまくるアルマに、次第にシンクロしていく。

そんな状況で、エリザベートが医師に向けて書いた手紙を、封がしてなかったからといって勝手に読んだアルマは、その内容から自分がエリザベートに利用されたと思って激怒する。

失語症という蓋の下で欲望がパンパンに膨れ上がっているだろうエリザベートの内面は、アルマの高ぶった感情に刺激され、アルマの姿を借りエリザベート自身を攻め立てるというかたちで表に出てくる。

わざわざアルマの姿になったのは、例えリアルに声を出さなくても自分の姿では欲望を語れないくらい強く抑圧してきたからではないかと推察するけれど、とにもかくにも、自分の内面と向き合うことができたエリザベートは、病が快方へと向かうのであった。

その存在を探し求め、対話すべきホントウは、神ではなく自分自身、自分が無意識に押し込んだ欲望だったのではないか、と。おお神よ、あなたは私であったか、と。

ところで、本作が「ベルイマンの映画論」であるのだとしたら、エリザベートは芸術家でベルイマン監督のことだろうから、映画というのは制作者の欲望の表現ということなのだろう。特集上映11作目の感想を書く前にようやく買ったパンフレットによれば、<ベルイマン本人はコンプレックスと欲望に勝てないダメな自分を映画のなかで赤裸々にさらけ出してきた人でした。>(町山智浩)とあるし、きっとそうに違いない。

そして、エリザベートはアルマという映画を観て、自分と区別がつかなくなるくらい感情移入し、抑圧した欲望を知ってスッキリしたけれど、映画を観るってこういうことだと。この作品は「映画を観ている人を観る映画」ということになるのかもしれない。
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