平野レミゼラブル

ニュー・シネマ・パラダイスの平野レミゼラブルのネタバレレビュー・内容・結末

4.7

このレビューはネタバレを含みます

【美しき郷愁は切り抜いたキスシーンと共に】
ド名作今更初見感想文シリーズ。
映画好きに最高の1本を聞いたら必ず挙がる作品であり、なんかもう皆好きって言いすぎだから俺は言わなくていいかな……くらいのポジションにはなっている大大大名作。まあ当然のように、にわか映画ファンの自分は観ておらず、今年の正月に初めて観た有り様なんですけど、やっぱり名作と言われるだけの名作ですね~。
ジュゼッペ・トルナトーレ監督&エンニオ・モリコーネの音楽が合わさった名作は先に『海の上のピアニスト』の方を観ていましたが、そちらにも通じる部分のある「人間の役割」に対してのお話であり、そして「人間の居場所に殉じる」お話でした。モリコーネの「よく聞くけどこれニュー・シネマ・パラダイスの曲だったのか!!」という聞き馴染みのある名曲も相俟って、どこか懐かしい雰囲気と、そして変わりゆく世の中で唯一変わることのない愛に浸って泣いてしまうのです。


ジャケットに描かれているのが、輝く笑顔を見せる小僧なため、冒頭で中年の男と老婆が電話をしているシーンから入るのはちょっと混乱します。しかし、「アルフレードが亡くなった」という趣旨の電話の内容を聞くうちに段々と物語の構成と内容を理解していきます。要は、この中年男こそかつて輝く笑顔の小僧であり、彼とアルフレードなる人物の思い出こそが本作の核なのだと。

回想に入ってからは、観たことない名作特有の「有名だけど具体的にどういうシーンかわからなかったシーン」がじゃんじゃん出てきます。あの輝く笑顔の小僧はトトっていうのか!とか、トトと一緒に自転車に乗ってたお爺さんは映写技師でこの人こそ亡くなったアルフレードなんだな!とか。
こう、はじめて観るのに懐かしくなるってのは、後発で『ニュー・シネマ・パラダイス』を観ることの何よりのメリットのような気がします。なんせ、懐かしさこそが一番重要になってくる本作のポイントなんだから。

映画が大好きなトトと、アルフレードの映写室でのやり取りが本当に微笑ましいです。
経営する神父の検閲によって、みだらとされるキスシーンのカット作業を行っているアルフレードの元に、なんやかんや理由をつけてトトはやってきますが、その度にアルフレードは邪険に扱います。でも、その邪険にするやり取り自体を楽しんでいる節があるのが良いんですよね。対するトトも、そんなアルフレードが本気じゃないのを見抜く小賢しさがあるので、仲良く喧嘩するいい具合のじゃれ合いになっています。
トトがたびたび映画絡みで問題を起こして母親に叱られても庇ってやる辺り、なんだかんだアルフレードの映画好き仲間のトトに甘くしてしまう感情が透けて見えてしまう。かなり知恵が回る分、悪ガキめいてるトトよりも、終始とぼけた感じのアルフレードの方がなんか可愛いんですよね。実際、小学校卒業試験で苦戦するアルフレードがトトに答えを教えてもらうようせがんで、代わりに映写機の使い方を教えてもらう条件を示されるくだりなんかは、子供と大人の逆転現象が起きていてどこか可笑しい。

アルフレードを師と仰いでからのトトは、生来の要領と頭の良さをもって次々映写技師としての技術を身に付けます。最初は渋っていながらも、対等な映画好きが育っていくことにアルフレードもどこか楽しげです。
若い奴には負けてられんという感情も働いたのでしょう。ある時、劇場から大勢の観客が締め出され、外でブーイングが起きた時、アルフレードは光の屈折のトリックを用いて、映画館内と野外の両方に映画を流すという荒業を披露します。そのアイデアに目を輝かすトト、歓喜する観客、外の客からも金を取ろうとする銭ゲバの神父…と三者三様の盛り上がりを見せますが、無茶な使い方が祟ったのか、フィルムから着火しパラダイス座は炎に包まれてしまいます。事前にトトが集めていたフィルムでボヤ騒ぎを起こしていたことが布石になってるのが丁寧。
トトの必死の救助もあってアルフレードは一命をとりとめますが、失明してしまいます。


その後、なんやかんやでパラダイス座は「新パラダイス座(ニュー・シネマ・パラダイス)」へと再建。トトも正式に映写技師として勤める青年編へ突入します。
アルフレードも光を失ってなお健在…というよりむしろ神懸かってきており、音も聞こえない状態にも関わらずピタリと映画がどれだけ進んだかまで言い当てる千里眼を身に付けます。そのこともあって、ますますアルフレードに心酔していくトトですが、当のアルフレードは「人には人に定められた役割がある。俺は映写技師としての役割に殉じるが、トトは技師の役割で終わってはいけない」と諭します。トトも本来ならば技師一本で食っていこうとしていたのですが、アルフレードの説得もあって高校にも通いながら技師の仕事をしています。
アルフレードの「神の如き技能」と「役割論」に関しては、『海の上のピアニスト』の1900をも思わせますね。あるいは、トルナトーレ監督の唱える一種の超人哲学なのかもしれない。

そんな中、トトは街に越してきた銀行家の娘・エレナに恋をしてしまう。ビデオカメラで彼女を追う内に次第に強くなっていく感情を抑えきれなくなったトトは、師であり、親友でもあり、父親代わりでもあるアルフレードにこのことを相談します。
アルフレードは具体的なアドバイスは避け、「100日間待つ兵士」の寓話を聞かせます。
その話というのは、
「ある時、王女に身分違いの恋をした兵士が告白した。すると、その王女は『100日間バルコニーの下で昼も夜も待っていれば結婚します』と答えた。意を決した兵士は、王女の言うように昼も夜も雨も雪の日も何があってもバルコニーの下で待った。もう既にボロボロな兵士を王女も期待を持って見守った。しかし99日目の夜になった時、兵士は突然立ち上がりどこかへ去ってしまった」
というもの。
トトは兵士の行動の真意を問いますが、アルフレードもわからないと答えます。わかったら教えてくれとも。
何か元になった民話でもあるのでしょうかね?『ニュー・シネマ・パラダイス』全体を総括する答えが含まれてそうな意味深なものですが、映画では最後まで答えを教えてくれる人は出ません。

先のアルフレード及びトルナトーレ監督の哲学を考えるに、ここにも「役割」が関わってきそうです。
「兵士は王女に恋をして、その恋のために100日間待つという試練にも果敢に挑戦した。兵士の気持ちは強く、くじけそうになろうとも、ゴールの華やかさを想像しては耐え抜いていった。しかし、99日が過ぎたその時に、この試練に耐えられるだけの自分の力が、恋だけの為に使い潰されていることに勿体なく思ってしまった。そのため、彼はもっとこの力を有効活用できる「役割」を探すために、あっさり恋を捨てて旅立っていった」
…というのが、『ニュー・シネマ・パラダイス』を観た上で僕なりに考えた答え。アルフレードはトトに、映写技師という「役割」や、パラダイス座のある街にだけ囚われてほしくないという願いがあることが窺えます。となると同じように、トトには恋に囚われて、彼が持つ本当の「役割」を逃してほしくないと考えるような気がするのです。
まあ実際のところ、千里眼をも身に付けたアルフレードですら答えが出ない命題でもあるので、この解釈が合っている自信は全くないんですけどね。
一方のトトの解釈はと言うと、この兵士同様にエレナの部屋の窓から見える場所で夜通し待ち続けるというものでした。
ぐ…愚直……!!

エレナにこの想いを伝え、雨の日も雪の日も、夜通し待ち続けるトトですが、エレナが来る気配はありません。遂に新年を迎えましたが状況は変わらず。
トトは意気消沈しながらも、映写室で仕事に励みますが、そんな中で遂にエレナが姿を現します。そして2人は、今まで神父にカットされていた映画の構図のように熱烈なキスをして結ばれます。
その後、モリコーネの楽曲に合わせて映し出されるのはトトとエレナの数々の愛の営み。どれも映画の一場面として切り抜かれたかのような構図でポップです。特にサボテンの葉をお皿にしてサラダを食べるなんてオシャレですね。

しかし、この恋もある種、映画のような身分違いの恋。この2人の仲を良くは思わないエレナの父によって、エレナは遠くの大学への進学が決まり離ればなれとなってしまいます。
それでも、その後、大雨の野外上映会で2人は再会を果たしてびしょぬれになりながらの熱烈なキスをします。しかし、このシーン、どうにも僕には幻想のように思います。

というのも、最初に映写室で2人がキスした時は、映写機で映している映画からキスシーンが抜けてしまっているんですよ。まるで、これまで神父がキスシーンを映画からカットして奪っていたように。つまり、この時のキスは他の誰にも観ることが許されない、「2人だけのキスシーン」を手に入れて愛が成就した暗喩です。
しかし、大雨での上映会で2人がキスをしている時には、映写機は変わらず映画を映し続けているんです。今度は映画からキスシーンを奪えなかった。それどころか、その映画をよく見てみると、主人公の男は女性にキスをしているようで、ただ岩にすがりついているだけ。要は、この時のトトはエレナの幻影とキスをしているという暗喩なのです。そのことを証明するかのように、その日エレナに教えたトトの徴兵の日にも彼女は来ず、初恋はそのまま終わりを迎えます。

エレナと連絡も取れず、徴兵中に新しく映写技師も雇われたパラダイス座にも居場所が無くなり落ち込むトト。
アルフレードはそんな彼に外へ出ることを薦め、同時にもう一切帰ってきてはいけないと厳しい言葉を投げかけます。千里眼のアルフレードの「お前はこの街で終わる人間ではない」というお告げを受けたトトはローマへと渡り、そして律儀にアルフレードの言いつけを守り、葬式の日までの30年間、故郷に一度も帰ることはなかったのです。


長い長い回想が終わり、冒頭から地続きとなるアルフレードの葬式の日。周囲の開発の煽りもあって街は様変わりし、かつてのパラダイス座も最早廃墟に。アルフレードの棺桶を運ぶ葬列は、そのままかつて自分が過ごした街の葬列でもあります。
そして葬列には、かつてのパラダイス座で映画を共に観た懐かしき街の人々も加わっており、皆でパラダイス座の前で立ち止まり、あの美しき思い出を振り返ります……

まあ、思い返してみても、「パラダイス座」の思い出ってひっどいものしかねェーんですけどね!!「あの頃は良かった」って思い出補正かけてはいるんだけど、その補正込みでも「パラダイス座」が良い映画館かっつーと微塵も良いとは思えない。
だって、まずもう煙草プカプカ、おしゃべりガヤガヤと環境が最低だし、ガキがオナニーしたり、台詞を一字一句間違えずに暗記して映像より先に諳んじるネタバレクソ野郎がいたりで客層がクソすぎる。暴力沙汰もザラだし、トイレが盛り場になってるし、爺さんが心臓麻痺で死んだ後の席に花が添えられたり(えっ…!?マジで死んだ…!?って驚愕してる間にスルーされたんでクソ笑った)ってのも治安が悪すぎます。最終的に2階から唾吐かれたと思ったら、うんこ投げつけてくるって有り様ですからね。あらゆる意味でスカム映画館だよ!!
当日券買ったらその日の映画観放題という昔の上映方式には、ちょっと憧れがあるんだけれども、このあまりに終わりすぎている世紀末映画館事情を見せられると「現代のシネコン万歳!!」って結論に至っちゃいますね。なんせ、今これを観賞している僕は現代っ子だから!というか、いついかなる時に、このパラダイス座の惨状を見たとしても「あの頃は良かった」って感想には成り得ない気がするんだよな……

ただ、パラダイス座を愛せなくてもそれで良いのです。本質は「パラダイス座が素晴らしい映画館だったか、否か」の部分にはないのですから。
パラダイス座のある街にはいつだって、そこでしか生きられない人間が住んでいました。彼らはこの田舎に囚われ、そこで役割を得て、それだけをやり切って年老いていく……そんな「役割」を享受するしかない人々にとっては、映画館は未知なる世界へいとも簡単に連れて行ってくれる大切な場所に他ならなかったでしょう。
しかし、いくら街が停滞していても、その周囲は絶えず変化が求められ、そのうねりはやがて巨大化して街をも包み込んでいく。そこに抗えない停滞した人々は、またも「変革」を享受し、停滞していた筈の街が変わっていくサマを黙って見守るしかなくなってしまうのです。
今までずっと停滞の中で生きてきた人々からすると、変革こそ何より望んでいたことかもしれない。しかし、いざ変革が自分の身にまで及んだその時、ずっと一緒にいた停滞に愛着が沸いていて、手放さないといけないことにとてつもない痛みを感じてしまう。
まして、その手放さないといけないモノが、自分たちにとっての未知という「役割」を果たしてくれていた映画館だったとするならば……
皆がその痛みと哀愁を共有した時、はじめて広場を自分のものと主張し続けていた狂人の「俺のモノだ!!」という叫びに共感し、涙するのです。

要は、パラダイス座というのは絶えず流動的に動く世の中で、それでも手放したくない、変わって欲しくないと願った、あるいは失ってはじめて気が付く大切なモノの象徴なのです。僕の価値観からすれば、パラダイス座はスカム映画館でしかなく潰れて当然のモノですが、少なくともあの街の人々にはそうではなかった。
それは言い換えれば「聖域」であり、そして同じように少なくとも自分だけが価値をわかってやれる「聖域」というものは、誰だって持ち得ているし、誰だって失っている。その「聖域」をわかりやすく具現化したのが「パラダイス座」であり、そしてそこに抱く感情というものはいついかなる時、あらゆる世代や国を超えて同一のものなのです。

『ニュー・シネマ・パラダイス』が「聖域」を構築している映画であることは、本作が普遍不朽の名作と謳われている点からしても明らかでしょう。
人の数だけ、「思い出」があり、「郷愁」があり、それを経たからこその「今」がある。人の数だけあるその大切なモノをフィルム缶に詰め込んで、最後の最後に見せてくれるのがこの映画の本質。
あの街で皆が見たそれが「パラダイス座」だっただけのことで、この映画を観る人は「パラダイス座」に思い思いの何かを投影して、それに涙するのでしょう。


アルフレードの葬儀とパラダイス座の爆破を見届けたトトは再び故郷を離れ、今の自分の「役割」を果たす居場所たるローマの試写室に戻ります。そう、彼はアルフレードの千里眼通りに、大物映画監督へと大成していたのです。
そして、アルフレードの遺品であるフィルムを映写機にかけて流すトト。そこに溢れていたのは、あの懐かしき日々の中で奪われていた筈のキスシーン集……
大物監督となり、数々の浮名を流していたトト。しかし、彼は今もなお、あの日ニュー・シネマ・パラダイスで映画から奪ったエレナとのキスに匹敵する「真実の愛」に出会えていなかった。そんなトトが、奪われ行方不明になっていた「愛」の所在を確認した時、自然と涙が溢れて止まらなくなってしまうのです。
フィルムいっぱいに詰められた沢山の「愛」の末、「Fin.」の文字を観たその瞬間、『ニュー・シネマ・パラダイス』はこれ以上ない完璧なエンディングを迎えます。

超絶オススメ!!!!