ゆーあ

哭声 コクソンのゆーあのネタバレレビュー・内容・結末

哭声 コクソン(2016年製作の映画)
4.0

このレビューはネタバレを含みます


怖いです!本当に、本当に怖い!!

レイトショーで観たのですが、久しぶりに暗い道を1人で帰れない…と震えました。劇場が明るくなるまで席を立たない主義なので、意地でエンドロールまで観切りましたが「ポストクレジットがあったら許さないからな!!」という気持ちだった(恐怖で逆ギレするタイプ)。

ジャンルは悪霊系?呪い系?ホラーと定義しづらいのですが、私は強い宗教性を持った作品だと感じました。冒頭と最後に聖書の一節が引用されていることもありますが、「自分が最後に信じるものは何か」それを厳しく試されているようでした。人知を超えた恐怖や不安に苛まれる時、人はそれに対抗できる力があると思う者に救いを求め、理解・共感できない相手に原因をなすりつけようとする。しかし何かをきっかけにその「思い込み」という「拠り所」が揺らいだら…?この作品はその不完全な足場をグラグラ揺さぶってきますが、観客はその怖さ、心細さ、怒り、焦りに3時間6分耐えなくてはなりません。血みどろの一家惨殺、急速に皮膚がただれ痙攣する入院患者、ゾンビ化して襲ってくる死人など視覚的な衝撃も多いですが、この作品がこれほどまでに怖いのは、そうした外的恐怖に耐える心をも蹂躙してくるからだと思います。

この苛烈な苦難を味わう主人公は、無力そのものでした。そして恐怖と焦りが頂点に達した瞬間、怪異の元凶=悪霊だとみなした國村隼を襲いにかかる。國村隼は山奥の一軒家で怪しい祈祷をし、ふんどし一丁ではいつくばって鹿の死骸からその生肉を貪り喰う、まあどうみても異形の存在なのですが、かといってそれらは状況証拠にも満たない。もしかすると住民を救うために祈祷をしている救世主かもしれない。…でもそれでも、この苦難から解放される術はそれしかないと信じこんでいるから凶行に及ぼうとする。この一連のシーンは非常に印象的で、まるで宗教弾圧のように見えました。もし國村隼が救世主だとしたら、主人公が頼った高名な祈祷師は既存の宗教で、その人が國村隼を悪霊だと断言したから、実際理解できないから排除するというのはキリストの処刑を連想させます。
苦しみから解放されたいが故の主人公の過ちは、最後に意外な人物から指摘されますが、そこでも主人公は自身を正当化して否認します。事実この主人公、人の言うことを最後まで聞かない。目先の不安に押しつぶされて祈祷も助言も最後まで全うしない。でもそれは、もう何を信じたらいいのかわからなくなっているから。そこからは「信じる心の柱を失い、被害者意識だけを強めて他者への攻撃性に転換すると恐ろしい結末になる」というメッセージを感じた。でも…私たち弱い人間にはどうしたって難しいことだよなあ。家の結界にさげた魔除けの草が枯れた瞬間の絶望感と諦念、そして恐怖は凄まじかったです。

怪異の原因が結局何なのか、答えは観た人それぞれ異なると思います。祈祷師と國村隼がグルで、女こそ神に遣わされた救世主だという解釈も筋が通るし、すべて幻覚キノコによるものという科学的結論に落ち着けることもできる。でも私は國村隼が(外法に手を出しはすれど)善人だったと信じたいな。鶏を買う時の会話や重傷を負いながら逃げる様など、誰の視線も介していないシーンでは到底悪魔に見えなかった。ラストシーンも、あれは助祭くんの視線で見た姿だし。

作品の根幹を創った國村隼さんの演技は鬼気迫るもので、栄誉ある賞に輝いている通りの見ごたえがありますが、主人公の娘(子役)も凄かったです。年相応のオマセで無邪気な表情から狂気に身をよじらせ絶叫する様、心を失い凶刃を振るう姿はエクソシストのリーガンもかくやの迫力。小さい体の限界を超え、魂を削って演技しているように見えました。

芯から冷えた腹の底に慟哭が響き渡る、とにかく消耗が激しい作品ですが、恐怖のカプセルの内に考えさせられる要素がみっちり詰まったとても面白い劇薬です。もう一度見直したいけど…まだその勇気が出てこないなあ~~(苦笑)
ゆーあ

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