平野レミゼラブル

カセットテープ・ダイアリーズの平野レミゼラブルのネタバレレビュー・内容・結末

4.3

このレビューはネタバレを含みます

【ブルース・スプリングスティーンのカセットを入れて、車で飛び出そう!】
いやはや、音楽と青春映画の相性の良さってのは凄いもんで、自分はついぞ音楽とは縁がない青春を送ってきましたが、その分映画では音楽による青春時代の素晴らしさを発信する物語にノックアウトされっぱなしです。
本作はドチャクソ真面目って印象な青春音楽モノでして、何かを発信することの素晴らしさ、そして言葉とブルース・スプリングスティーンの音楽が繋いでいく家族の物語としても素晴らしい!!脇役も隣人や親友、恋人といった理解者を配置して、作風も他人の好きを否定しないという真摯さ、演出面でも歌の使い方が巧すぎて痺れます。

主人公のジャベドたち一家はパキスタンからイギリスへと渡ってきた移民。折しもこの時期のイギリスというのが移民排斥運動が盛んだった時期。そのため、より生活を豊かにするために渡ってきた筈が、父親は真っ先にリストラ対象に選ばれてしまい、そんな状況にも関わらず仕事を移民に奪われたと感じた白人たちによって差別や迫害の洗礼を浴びせられます。
家の方は家の方でパキスタン系の厳格な父親による家父長制のため非常に息苦しい。学ぶ教科も、結婚相手も、職も全て父親によって決められ、自分の好きな音楽を聴くことも文章を書くことにもケチをつけられてしまうのです。

そんな鬱屈した環境の中で知り合った同級生から薦められたのがブルース・スプリングスティーンのカセットテープで、これを聴いたことで感化されていくワケなんですね。ブルースの歌うのは理不尽な差別や暴力への怒り。正にジャベドの置かれた状況そのものへ立ち向かうことの大切さを訴えかけてくるわけです。
ブルースをはじめて聴いた時のジャベドの衝撃ったるや、嵐の中でも窓を開けざるを得ないくらいの開放感!!いても立ってもいられなくなって嵐の外へと飛び出し、歌詞は周囲を飛び回り、壁へと映し出させれるなど、歌自体が一つの天変地異のように描かれる高揚感でジャベドの感情を表します。
私も洋楽に明るいワケでもなく、ブルース・スプリングスティーンは本作ではじめて聴いたんですが、その画面上に浮かび上がってくる歌詞のメッセージ性の高さが本当に素晴らしい。『ボヘミアン・ラプソディ』が現代のQueenファンを産むように、本作もまた新たな布教映画となるのですねぇ。

歌の持つ推進力はそのまま映画を進めるための力へも変換されます。ブルースに勇気を貰ったジャベドは何事にも挑戦的、かつ権利を主張するようになっていきます。本作ではところどころで音楽に合わせて皆が歌い出すミュージカル的な演出も目立つのですが、それを差別してくるファッキン野郎たちへの反撃手段として活用していくのがスカッとします。
恋する女の子へのアプローチの為に街中で歌い踊り出すサマなんかは、往年のミュージカルらしいベタさにも溢れていますが、そのノリについていけないというアクションを起こす親友を配置することでワンクッション置いています。プラス、あまりにもブルース・スプリングスティーンに傾倒しすぎていて、周りが見えなくなり「他人の好き」を否定するようになってしまったジャベドへ警鐘を鳴らす部分にも繋がっており、やはり堅実かつ真面目な作り。隙がないぞ。

この隙のない真面目さは音楽を奏でるブルースの真面目さにも通じる部分がありますかね。本作でも引用されていたブルースのインタビュー映像では「私がここまでやってこれたのは低賃金の工場で働いていた家族の支えなどがあったから」と語り、そうした低所得者層への愛やリスペクトを表明する。実に誠実で真摯な人物像です。歌詞の深いメッセージ性もこうしたしっかりとした人格の中からこみ上げてきたものなのでしょう。

これだけ音楽が高揚させてくれる青春モノの主人公って、バンドを組んだり音楽方面に進んでいくのがほとんどだと思うんですけど、ジャベドくんは文筆業方面に進んでいったのは嬉しかったですね。
いや、これは完全に個人的なことなんだけど、僕も一応文筆業でメシ食ってる端くれではあるので……音感が皆無なんでバンド組まれてもね「あっ俺には出来ないな」って最初から諦めムードになっちゃうからね……
なので、ジャベドくんがブルース・スプリングスティーンで勇気をもらって自分の文章に自信をつけて発信していくって行動の方がより現実的な勇気を貰えたんだよね。 何かを創作する喜びと、それを発表する喜び、それは音楽に限らずあらゆるものに通じる勇気と行動なのです。

とはいえ、その喜びを分かち合えない、理解してもらえないという苦しみというものも確かにあって、それが家長たる父との確執。ジャベドは父に威張り散らして他人に何かを強いるクセに、自分は社会から切られて何も成し得てない!ふざけるな!と怒りをぶつけるのです。

しかし、それは果たしてブルースの意志に沿うものなのでしょうか。
ブルースは自分の音楽活動の源を家族の支えと犠牲にあると定義して感謝していました。
それに倣って改めて自分の父親のことを考えるとどうでしょう?父は元々、家族の暮らしをより良くする為に見知らぬ地に移ってきたチャレンジャーでした。そこまでのことをする勇気と、家族の為に働いてきた信念は正にブルースが何よりリスペクトする精神であり、ジャベドが学んだ大切なことです。
その厳格さの裏に確かにあった父の想いと支え。これらがあったからこそ、論文が受賞するまでに至る自己表現が出来る自分がいる。そのことに気付いたジャベドは、受賞スピーチの場に父が来た瞬間に原稿を読むのを止め、自分の言葉で父への感謝を述べだすのです。父も息子の想いに触れ、頑なだった心を解いて抱き合います。これこそブルース・スプリングスティーンが高らかに歌いあげた理想を結実させた名シーンと言えるでしょう。

この辺りのパキスタン系の厳格な家庭での父親との対立軸と音楽による解放というテーマはかなり創作物との相性が良いのか、近年でも結構創られていますね。去年観たインド映画の秀作『シークレット・スーパースター』、『ガリーボーイ』なんかは中々近しいかも。
『ボヘミアン・ラプソディ』はフレディがまんまパキスタン系移民でしたね。こちらも父親との和解までの流れが美しかった。音楽とその辺りの文化圏の鬱屈との相性、あまりに良すぎます。
ただ、本作を観て一番似ているって思ったのは『遠い空の向こうに』かなァ〜。音楽とロケットの違いこそありますが、何か推進力のあるものから力をもらって父親とも分かりあい、故郷から凱旋していくという流れはいつ見ても綺麗です。ジャベドくんを演じるヴィヴェイク・カルラが心なし若き日のギレンホールに似ているってのもあるかもしれない。

ブルース・スプリングスティーンの音楽の使い方と展開の噛み合わせ方ももちろん見事なんですけど、もう一つ僕が着目しておきたいのは「車」の使い方。
ジャベドの家の車は中古車でエンジンのかかりが悪いんですね。序盤でも家族総出で車を押してやっとの思いで発車させるシーンがあったりする。
だから、中盤に父の存在に耐え切れなくなったジャベドが家を飛び出し1人で車を発車させようとしても、車はどこにも行けない。結局のところ家族の助けがなければジャベドはどこにも行くことが出来ないということを暗示しているわけです。この時点ではジャベドにとって車と家族は明確に束縛と呪いの存在でした。
しかし、ブルース・スプリングスティーンはこの車の持つ意味をも変えた。映画のラスト、大学入学のために旅立つため車の助手席に乗ったジャベドに父は車の鍵を渡すのです。運転手交代。即ち運転はジャベド自身の自立へ、家族はその旅立ちを見送る祝福へ。
長年の夢だった外への旅立ちをジャベドが果たすこの一連のシークエンスを、車一つで爽やかに表現しきる演出が見事すぎます。最高のラストです。

オススメ!!