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沼の家の娘
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『沼の家の娘』に投稿された感想・評価

3.6
雇い主から不当な扱いを受けた女中。そんな時に彼女に同情した新しい雇い主が現れるが、、、。

初めてダグラス・サーク監督作品を鑑賞。メロドラマが得意との事だったが、自分があまり得意じゃないのでちゃんと観れるかどうか、、、笑

美しい田園風景で起こるドロドロとしたドラマ。メイドを雇ったら、奥さんが嫉妬し、解雇するよう仕向ける。可愛いメイドのヘルガが可哀想すぎる。

色々と吹っ切れる終わり方で良かった。
菩薩
3.9
中居くんスタート吉沢亮終わりみたいな映画で異常にタイムリーだった。主人に手をかけられて身籠ったシングルマザーが賠償金請求の訴訟を起こすも結局取下げざるを得ない理由がよく分からなかったが、ただでさえふしだらな女だと評判が悪いのに男性を屈服させたとして余計に評判が下がるのを恐れてみたいな事ですか?構造的ミソジニーに女性も加担する所謂女が嫌いな女みたいな概念がいつ始まったのか知りたい。そんな彼女に救済の手が差し伸べられてからは牧歌的な展開が続いていくのだが、婚約者のあの冷徹な視線を受けて以降は一気に不穏なムードが漂ってくる(オカンにさりげな〜く出てけと言われた後の大鎌の寄りよ…)。そんな彼女とすら和解へと至る道は感動的ですらあるが、であれば最後はやっぱり身を引くべきはそっちなのか?と疑問を呈さずにいられないのは私だけでは無いと思う、そんな徹頭徹尾女に嫌われる女しなくたっていいのに。川に石ポチャした後の場面転換とか非常にオシャレ、実家の灰を囲炉裏にぶち込むとホームシックが治るとか、幽霊の存在を匂わせたりと謎に観念的なのはドイツ表現主義の流れを汲んで〜みたいな事なのですか?知らんけど。最後が納得いかんとは言え良質な小品、どうぞお幸せに。
 最盛期でもある晩年のサークは世界基準を更新していってる、高度普遍性と独自個性の合一の凄い世界を建設し続けたが、ドイツ時代の初期は、まだスタイル・デクパージュが具現化する前の、しかしカオスでもない、映画の商品昇華以前の作家の、純真な心と滾る血流がそのまま流れだし結晶したような、何にも帰納できないような、可能性と詩に充ちた作の生成場だったのだろうか。取分け本作は、(定番気恥ずかしい)個人的好みの『白夜を旅する人々』『ヘルマンとドロテーア』『(ドライヤーの映画)奇跡』を観てて想起せざるを得ない、確定した作品自体よりも、ある種の香気全体の高みを感じさせる作である。一昔前近代化以前の時代の農村コミュニティを扱った本作は、キャラのあり方も説明で固められてるわけではない。とっさの行動やそれへのカメラの反応に、その人の本質が観客の心を貫く。自然や環境の描写も固められるのではなく、只説明を要さない存在の本質らだけが、互いに干渉し合いより自然な何かを現すだけで、観る者の印象の操作は計らない。第三者が流れに割り込むのも普通でデクパージュは人工的に絞られ高められる事はない。
 光の強弱や表情と共に作品は呼吸し生きつづける。陽光や月光の柔らかも変化ある強弱被さり、スモーキーな人為空気、グレーめに落ち着いた先のが際立たない端に退いた家屋内外の時間と場。生い茂る植物の葉のそよぎ、囲む水面やそれに映り揺らぐ人の顔。それらの無理のなく、また強い造型に固まらない、描写の刻み方。馬車の操りも自然の一部だが、それや食卓の、角度取りや切返しや各人カットも映画的組立てを離れてる。第三者のカットも同等に挟まり流れてく。
 自在自由に人間らを掻き分け動く人と共に動き続けるカメラ移動。いつしか強めに寄る退くの移動も。フォロー移動も思い立ちに急に強くにも。90°変も際立って前後を結びつけたり対照させたりせず、自然に柔らかい方の角度に選び直す。が、強い縦図も移動他の中で見られ造られる。その中で何気に人の動きがコミュニティに縛られてる事とそれを打ち破る(可能性の力)方から、人物らが無意識盲目的に選択する行動のかたちへの、単純な感動。ヒロインが思わず、雇い主となった男から急に後退する、二人が偶然か必然か並んだ姿をやや仰った図、逃げんとするを掴んで引き戻す半ば暴力、主人公二人の「怖い。それほど愛してる」荘厳でもある関係の現れ・至り。男の婚約者の変移の力も、それを証明する正しさへの変心の裏返し現れ。
 すべての人物が運命の恐さを、自然のやコミュニティの柔らかさと懐ろに沿い、また鍛え直してより高め合う、否定すべき人物も非現世もあり得ない、試練と至福の調和を描いた作。孕まされた主人を訴えた女中が、薄汚いと周囲の非難強い空気の中、法廷で我が子の為に貶められる父は不適当、と勝訴直前を取下げるが、一転それは周囲の評価の対象となる。そして偶々そこに居合わせた農場主は、行き先を失ってた彼女を雇う事とする。彼女は両親と暮らしてた、生家の小農場に今も事あるごとに係わり、深い愛着を保ち続けてもいた。が、今度雇われた先で、極めて農場主やその家族や先輩使用人らの間でも評判いい中、こっそり生家の灰を当地のものと混ぜてるを新主人にやましいものを見たかのように発見される。「いつも勤め先ではホームシックに(、そして悲運でそこを出てく事続き)。しかし、これはここを去らないですむようにとの為に。そしてこれは一生に1度の、(現地を本当に好いた為の行為の)事」。新主人には、より大きな名門農場の娘との、互いに惚れ合っての婚姻の話が進んでた。格下に娘が嫁ぐ事に難色を示してた先方の親も、訪ねてきて、愛情と懇意が込められたこの地の丹精に感心する。そして結婚式に一気進んでく。しかし、新主人は、婚姻を我が事の様に喜んでくれる女中に意識下で惹かれる割り切れなさが生まれ来て、それを察したのか、婚約者はここに嫁ぐ前に彼女を解雇することを強く要求し、表向きにも、新女中の働きぶりや明るい人柄・彼女の家庭の事情に、対策を考え苦悶し、母に相談するも、同意も、嫁入りの日から女主人は入れ替わり、全て新しく改められる事は避けてはならぬと返される。そんな煩悶の中、式の前夜、正体なくなるまで飲み明かした新主人は、翌朝、式当日、住み家を持たなく怪しいも、様々にアドバイスや協力くれてた、家周囲に出入りしてた男から、不穏不気味続きの昨今、昨夜も子供のナイフ先の残った刺殺体が、の話を聞く。そして自らのナイフを堀川に隠す。そして式場へ。しかし居たたまれずに、豪華な準備がなされた向こう宅中心の式場にストップをかける。その宙ぶらりんに、「ここの幽霊を愛する飼動物で去らせる」「いや、その幽霊こそが大事な護り神」と1度勤め農場を去り戻ってた生家農場で母に諭されてた女中は、窮迫事情に、新主人のナイフの先が欠けてるは、自分が以前借りたときに傷つけた為を言いに、駆け付ける。その真情に相手の私情には高慢だった、婚約者の態度が変わってゆく。「あの娘は誰よりも貴方を愛してる。私は恥を(これ以上)かかされたくない」あえて冷たさを装い二人を祝福する(「感謝する」と答える)。そして必要以上に無口を貫き妻にも揶揄され通しの、新主人の父が、後また黙り続けられる、生涯でも限られた正念場と、真犯人は自分と告げた浮浪者の逮捕済、等明かして立ち回る。式の相手が変わったと母に告げ、改めて式へ臨む。瞬間拒む女中を引き戻し、怖いのかと聞くと、「ええ、(最初から)恐くなるほど、本当に愛してた」との応え。
 アメリカに渡りジャンルとスタイルが完全に確定され究められてくが、ドイツ初期にはかような定められないあらゆる方向への、神秘可能性があり、それこそが実は晩年の考えられない密度として、傍目には判らず結晶してた事がわかり、感動する。
 この作家はドライヤーやキューカーには僅か劣るかも分からないが、ワイラーやカルネらは遥かに凌駕し、時代は下るが、今のスピルバーグやイーストウッドは勿論だが、その上のコッポラや(いま世界が追悼中の)リンチをも、クリアしてる存在かも分からない。









     直後感
■三浦+ゲーテ。下がるヘルガ、仰2人、逃げる腕止める「怖い…愛してる」、「暫く喋らずとも」。「あの娘は誰よりも貴方を愛してる、私は恥かかされたくは」「感謝する」。「(一生)1度だけ、ホームシックを我が農場の灰で、去らぬ」。「ここには幽霊。動物で去らす」「いや、幽霊こそ」、「不吉事件の夜、子供もナイフで」、「私が欠けさせた」、「分かるまで婚中止、用意済み、変わる相手」。「女主人変わる」
自在長フォロー、寄る退く、速フォロー、90前後、第三者入れ、縦図になる。
陽光、月光、植物葉そよぎ、スモーキー、水面(映り)、グレー家屋茅内外、刻みめ。