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国宝の作品紹介

国宝のあらすじ

後に国の宝となる男は、任侠の一門に生まれた。 抗争によって父を亡くした喜久雄(吉沢亮)は、上方歌舞伎の名門の当主・花井半二郎(渡辺謙)に引き取られ、歌舞伎の世界へ飛び込む。 そこで、半二郎の実の息子として、生まれながらに将来を約束された御曹司・俊介(横浜流星)と出会う。 正反対の血筋を受け継ぎ、生い立ちも才能も異なる二人はライバルとして互いに高め合い、芸に青春をささげていくのだが、多くの出会いと別れが運命の歯車を狂わせてゆく...。 血筋と才能、歓喜と絶望、信頼と裏切り。 そのもがき苦しむ壮絶な人生の先にある“感涙”と“熱狂”。 「歌舞伎」という誰も見たことのない禁断の世界で、激動の時代を生き抜きながら、世界でただひとりの存在へ―― 。

国宝の監督

李相日

原題
公式サイト
https://kokuhou-movie.com/
製作年
2025年
製作国
日本
上映時間
175分
ジャンル
ドラマ
配給会社
東宝

『国宝』に投稿された感想・評価

4.8
歌舞伎俳優の市川團十郎、片岡愛之助も絶賛── あえて語らないテーマは【親子】
「【国宝】という名にふさわしい、奇跡の一本」

『芸のために悪魔に魂を売った孤独な役者が国宝になるまでの物語』

`38日間で観客動員398万1798人、興収56億732万7700円を記録。
公開46日間で観客動員486万5642人、興行収入68億5464万9900円(更新)
【市川團十郎が語る映画「国宝」 】https://youtu.be/OhHzzl4Z6qU?si=6navyDoJOTIel0T8

映画を観て、役者を観て、こんなにも心が震えたのは久しぶりです。芸の高みを目指して登れば登るほど、大切なものを確実に「削り」、「失い」、孤独になっていく。なんとも切ない事実、物語なのか。それをまさに体現した吉沢亮が素晴らしい。
吉沢亮が死に物狂いで、歌舞伎役者になる役作りに挑んできた現実と、劇中の喜久雄が歌舞伎役者としてもがく姿が重なり合い、何重にも演じる姿に心を奪われた。 (追記予定)

`歌舞伎に詳しくなくても楽しめます。
`制作費10数億以上と云われているが、それだけの価値がある。`歌舞伎という間口が狭いジャンルをひろげた伝統芸能への貢献度が高すぎる。配信ではなく【映画】でよかった。

■最高の台詞。ネタバレにならない程度に
「どこ見てたんやろな・・」

吉沢亮の演技は「圧巻」という言葉でも足りない。
これまでの彼とはまったく別次元。
「役を生きる」──それがどういうことか、この作品の吉沢亮を観れば一目瞭然。
歌舞伎役者を演じ、その役者がさらに舞台で演じる役の人生まで「二重」に体現するという、俳優人生で出会うことすら奇跡の超高難度な役。
彼が舞台の上で見せる一瞬一瞬が「生きる芸」そのもので、全ての賞をかっさらうと確信。
監督の演出なのか、吉沢亮は本作で完全に【覚醒】した。きっとこの先、ここまでのはまり役にはもう二度と巡り会えないのかもしれない。

脇を固める俳優陣も超豪華。
横浜流星でさえ「演技をしている」と感じてしまうほど、吉沢亮の存在が圧倒的すぎる。渡辺謙も高畑充希も素晴らしいのに、気付けば全員が彼のオーラの中に溶け込んでいる。唯一、田中泯だけが並び立つ存在感を放っていて、二人の共演シーンはまさに【命を削る】芸のぶつかり合い。田中泯こそ生きる【芸】の化身。圧倒的すぎて、もはや化け物の域だった。

ソフィアン・エル・ファニは第66回カンヌ国際映画祭でパルム・ドール受賞作の撮影監督。
彼の仕事も驚異的。
舞台の熱、役者の繊細な表情、呼吸、すべてを逃さず、汗、毛穴が見えるほど迫り、追いかけるカメラワーク。
ピントが外れてもなお役者の今を追うあの画は、ドキュメンタリーのような生々しさ。
自分も舞台のど真ん中にいるような、圧倒的な臨場感。
なのに、エンタメとしての美しさが共存していた。ラストシーンの画は美しすぎる。
邦画でありながらも、他の作品とは一線を画す画になっているのは、彼の力が大きいだろう。

そして李相日監督。
やはりこの人は天才。
「フラガール」で見せた“芸”の世界をエンタメに昇華する手腕は健在どころか、さらに進化。
歌舞伎という伝統芸能の壁を超え、観たことがない人にも胸に響く人間ドラマへと昇華させてくれる。
芸の厳しさ、美しさ、そこに生きる人の葛藤と痛み、そして希望。
そのすべてが、観る者の心を鮮烈に撃つ。
日本でここまで役者とスタッフの力を発揮させ、統率できる監督は李相日監督しかいないかもしれない。

今年、日本映画を語るなら絶対にこの1本。
【国宝】の名に恥じない傑作。

「ファーストキス」と「国宝」。
映画史に刻まれる豊作の年だと思う。

ストーリーやセリフで涙することは多いけれど、“役を生きる俳優”そのものを観て涙が出る体験は、人生でもそう多くはない。
本当に素晴らしい。吉沢亮。
日本芸能界に、間違いなく“天才”が生まれた。

映画館で必ず観るべき作品です。


【特番】https://youtu.be/e0Vr9sjQmWY?si=uc7Maih5o07GsmCK

■インタビュー抜粋

https://www.cinematoday.jp/news/N0148889

https://www.gqjapan.jp/article/20250603-yoshizawa-ryo-kokuhou-interview

●吉沢は、本作で歌舞伎を「いかにうまく、きれいに魅せるか」と1年半にわたって稽古し、撮影に臨んだ。しかし監督の口から出た言葉は“うまく踊れるのは分かったから、喜久雄として踊ってほしい”というオーダーだった。

●吉沢は「監督は“お初を演じているときも、喜久雄がどんな思いでその舞台に立っているのか、これまで喜久雄が抱えてきた思いを乗せてほしい”とおっしゃったんです」と語ると「正直何が正解か分からないなか“これでいいのだろうか”という葛藤が常にありました」と率直な胸の内を明かす。


●吉沢は「歌舞伎はいわゆる“型”の世界。瞬間を切り取ったとき、しっかり絵になるように見え方にこだわった究極体。手の位置や体の角度、視線の配り方など、ミリ単位で見え方を突き詰めていく表現には衝撃を受けました」と語る。

稽古をすればするほど、1年半では足りないなって。冷静に考えたら、歌舞伎役者の方が子どもの頃から何十年もやっていることを、たった1年半で学びきれるわけがない。足元にも及ばないということを、やればやるほど痛感して、どんどんしんどくなっていった記憶があります。

●おかげで、とんでもない集中力を発揮できた気がします。その瞬間、自分の鼓動と呼吸の音しか聞こえなかった。これまでに1度か2度しか経験したことのない、ものすごい集中力で入り込めたと思います。

全体のバランスうんぬんではなく、自分の役だけに集中しろとずっと言われているような感覚がありました。頭の中で計算したりせず、自分自身をひたすらに追い込む以外に、役に入る方法がなかった。たぶん初めての経験だったと思います。役を生きることが今まででいちばん苦しかった。
映画『国宝』は10年に1度の傑作日本映画!“美しさ”が人を狂わせ、“芸”が魂を燃やす──心底震えた168分を目撃せよ!

https://note.com/tenmame0720/n/n8634a48590ca

全編クライマックス、緊迫感が続き、鳥肌がとまらない168分
映画『国宝』を観終えた直後、私はそのまま席から立てずにいた。

体が震えていた。 涙がにじみ、言葉が喉の奥で引っかかったまま、出てこなかった。

──なんなんだ、これは。

3時間近い上映時間、全編がクライマックス。 極限まで引き絞られた弓のように、緊張と高揚が、これでもかというほど押し寄せてくる。

呼吸をする隙さえ、与えてくれない。 だけど、苦しくない。

むしろ、私はこの“美”に、もっと溺れていたかった。

李相日監督がこの作品に6年という時間を注ぎ込み、人生を賭けたというのも、心底うなずける。 いや、これはもう──映画を超えていた。

芸道の美学、血と継承と魂の抗い。

そのすべてが、劇場のスクリーンに焼きつき、私の心臓を直接打ち鳴らしてくる。

まさに「観た」というより、「浴びた」映画だった。

『国宝』という名の、芸と血に捧げられた物語
舞台は昭和から平成、令和へと続く日本。

古典芸能の象徴ともいえる歌舞伎の世界を背景に、"血"と"芸"、"宿命"と"選択"という、あまりにも普遍的でありながら、あまりにも重く、そして美しいテーマが、濃密に、激しく、静かに、描かれてゆく。

主人公は、名門の血を引くわけでもなく、ただ“芸”への飢えだけで歌舞伎の世界に飛び込んだ少年・喜久雄(吉沢亮)。 そして彼と運命を交差させるのが、由緒正しき歌舞伎の家に生まれた俊介(横浜流星)。

この二人が出会い、憧れ、嫉妬し、愛し、引き裂かれ、また惹かれていく。

その軌跡は、まさに“芸”に人生を捧げた者たちだけが辿る、苦く、甘く、狂おしいほどに美しい航跡だった。

吉沢亮が演じる“喜久雄”という奇跡
吉沢亮。 私は彼のことを、“俳優”ではなく“現象”として語るしかない。

あの白塗りの横顔。 まるで鏡のなかに消えていく幻のように、儚く、そして凛として美しかった。

李監督が「吉沢の存在そのものに、妖艶さと虚無が同居している」と語っていた。 その感覚が、スクリーン越しにも痛いほど伝わってくる。

彼はこの役に、自分の“すべて”を差し出したのだ。 実際に「代表作になってほしい」と語ったという言葉に、私は深く頷く。

なぜなら、これはただの“代表作”ではない。 吉沢亮という俳優の肉体と精神が、喜久雄という亡霊のような存在に取り込まれ、昇華された、**“芸の化身”**だからだ。

横浜流星が突きつける、血の運命と愛の形
一方で、俊介を演じた横浜流星の凄みも、筆舌に尽くしがたい。

彼が演じる俊介は、華やかで、美しくて、でもどこか決定的に脆い。

「自分とは正反対で苦手な人物だった」と彼自身が語っていたが、だからこそ、彼の演技は一切の“演技臭さ”がない。 むしろ、愛そうと努力し、理解しようと必死になった過程が、俊介という役にリアルな“血”を流し込んでいた。

特に後半の曽根崎心中の舞台シーン。 あの一瞬、私は息をするのを忘れていた。

あの目、あの手の揺れ。 俊介の中にある“血の呪縛”と“芸への渇望”が、まるで亡霊のように舞台上で蠢いていた。

そこには「イケメン俳優」も「流行りの俳優」も存在しなかった。

ただ、“芸に憑かれた人間”がいた。

渡辺謙が放つ絶対的な存在感

この映画には、若き天才たちを導く“巨人”のような存在が必要だった。

渡辺謙。

彼の重厚さと、静かな怒りと、乾いた哀しみ。 そのすべてが、花井半二郎という人物を通じて、作品全体を“本物”たらしめていた。

「舞台を降りて、芸とどう向き合うか──僕自身の経験と重なる」と語った彼の言葉の通り、これはただの演技ではない。

彼は吉沢と横浜の“現在”を照らす光であり、時に影であり、そして芸の神のような“祈り”でもあった。

試写を観たあと、李監督に「これは吉沢の代表作になる」と語ったという。 その言葉の意味を、私は骨の髄まで理解できた気がした。

そして、田中泯が“芸の地獄”を体現する

忘れてはならないもうひとりの“怪物”──田中泯。

彼が体現するのは、人間国宝と称される女方・万菊。

老い、静けさ、沈黙――しかし、その落ち着いた背中からは、なおも濃密に“芸の気配”が漂っていた。

派手な動きも台詞もない。ただ一挙手一投足が、「芸とは何か」を、身体じゅうで問いかけていた。

目線一つ、呼吸の深さ、沈黙の余白。それだけで、“伝承”とは血縁を超えた、魂そのものの継承だと、突きつけてくる。

これは演技ではない。田中泯の万菊は、“芸に取り憑かれた亡霊” であり、“人間国宝”の称号を持ちながらも、なお“住処を持たぬ魂”なのだ。

そしてその“鬼”に、まっすぐ向き合える吉沢亮の喜久雄。

この対峙こそが、この作品を“ただの傑作”ではなく、“邦画の奇跡” にしている、最大の理由なのだと私は震えるように悟った。

祇園の夜に、運命の導火線が火を吹いた

忘れられない冒頭がある。

1964年、正月の長崎。料亭の大広間で交わされる任侠たちの宴。

この描写だけで、私は完全に心を持っていかれた。

あまりに濃厚で、あまりに異様で、そして、信じられないほど艶やかだった。

この国の“裏”に息づく色と欲と掟の気配が、画面いっぱいに漂ってくる。
その真っ只中に放り込まれる少年・喜久雄。

彼は、たった一言の挨拶をした相手──花井半二郎との出会いによって、その後のすべてを変えられてしまう。

まるで、神に指を差されたかのように。

運命は、そうして祇園の夜から始まっていた。

少年期のパートは決して“前フリ”ではない。
むしろここに、本作のすべての主旋律が、すでに鳴っていた。

そして何より──この少年役が、あまりにも魅力的で。
私は吉沢亮と横浜流星が出てくることすら、しばらく忘れていたほどだった。

“血”と“芸”がぶつかり合う部屋子時代
大阪での修行時代。つまり、喜久雄と俊介の“芸の青春”。

ここがまた、濃密すぎて震えた。

狭い畳の部屋。襖の向こうから聞こえてくる足音と声。

教えられるでもなく、勝手に“盗み取る”ことが求められる世界。

そこにあるのは、理不尽でもなく、優しさでもない。
ただ、“芸”の純度だけだった。

俊介は、血筋という盾を背負いながら、同時にその重みに潰されそうになっていた。
喜久雄は、血の一滴も持たぬ身で、必死に芸だけを頼りに這い上がろうとしていた。

そのふたりの魂がぶつかる部屋子の日々は、まるで“燃える雪”のように、美しく、そして苦しい。

彼らの動き一つ、視線一つが、すべて“演技”ではなく“選択”に見える。

俊介の目が、喜久雄を見つめる一瞬。

あの目に宿っていたもの──それは憧れか、嫉妬か、あるいは──愛だったのかもしれない。

曽根崎心中の舞台が、血をたぎらせる
二度の上演が、映画を“生”の臨界点へと導く。

最初の曽根崎。
喜久雄が“お初”として、白塗りの肌を震わせ、舞台を支配する。
その瞬間、息を呑むほど妖しく美しく──
「これはもう、演技ではない」「生そのものだ」という思いが、直接胸を突き刺さる。

そして、二度目の曽根崎。
脚を失った俊介が、お初に挑み――
義足をつけ、痛みに声を殺しつつ、舞台を步む。
喜久雄は徳兵衛役として、影となり光となり俊介を支える。

この“一人から二人へ”、しかも傷を抱えた身体で演じ分けられる対比──
それは、ただの“演目”ではない。
これはふたりの人生そのものの血と魂の結晶だった。

舞台を観る観客の表情──目を見開き、拳を握りしめるその顔が、そのまま私自身の顔だった。

私は座席で、心の中で叫んでいた。

「もうやめてくれ」
「これ以上見せられたら、感情がもたない」

美しすぎて、痛すぎて、苦しすぎて──
だけど目が離せない。

そんな舞台が、この映画には“二度”ある。

それぞれのタイミングで、まったく異なる意味を帯びながら。
それは、二人の人生そのものの比喩であり、ふたつの魂が交差し、そして分かれていく分水嶺だった。

カメラは、舞台の“内側”へと突き進む
私が震えたのは、演技だけではない。

この映画のカメラワーク、映像の呼吸、光と影の設計──それらすべてが、“舞台の内側”にまで入り込んでくる。

ソフィアン・エル・ファニが手がけた映像は、ただの撮影ではない。

**「映像の中に舞台を閉じ込めた」のではなく、「映像が舞台そのものに変容した」**のだ。

それは、まるで歌舞伎の世界がこちら側にまで染み出してくるような、そんな不思議な感覚だった。

舞台袖の裏で役者が呼吸を整える様子、鏡前で白粉を塗る手の震え、演者が観客の視線を浴びながら演目に入っていく一歩手前の瞬間──

そのすべてが、魂のリズムで切り取られている。

観客であるはずの私が、なぜか“舞台の中心”にいるような錯覚に陥った。

そして、その錯覚こそが、『国宝』という作品が持つ、芸と観客を溶かす力だった。

血ではなく、芸に選ばれた者たち
俊介は「血」を持っていた。
喜久雄は「芸」に選ばれた。

でも、この映画が描くのは、単純な“才能の勝利”でも“宿命の敗北”でもない。

それは、“血”を誇る者が、“芸”に裏切られる苦悩であり、
“芸”しか持たぬ者が、“血”に追い詰められていく悲哀でもあった。

そこにあったのは、どちらか一方ではなく、どちらもが傷つき、もがき、そして舞台に立ち続けるしかなかったという現実。

李監督は、「芸に人生を翻弄された男たち」の物語に、“美”という刃を突き刺してみせた。

そしてその刃は、確実に私たちの胸にも届いた。

喜久雄と俊介の姿は、過去の誰かでも、未来の誰かでもなく、

いま、なにかを懸命に追っている私自身の姿だった。

──この映画を“感動した”と一言で片づけるのは、あまりにも軽い。

もっと、ずっと深いところで、私は撃たれていた。

名優たちの“狂気”が織りなす、圧巻のクライマックス

映画『国宝』は、後半に進むにつれて──狂気を帯び始める。

それは「演技が狂う」のではなく、「演技の域を超えてしまう」という意味での“狂気”だ。

とくに後半、喜久雄の“芸”が完成されていく過程は、もはや人間の営みというより、何か神域に触れてしまった者の記録のようだった。

白塗りの姿で舞台に立つ喜久雄の眼差し。

その奥には、「もう戻って来れない」と知りながら、それでも前へ進んでしまう役者の孤独と覚悟が刻まれていた。

彼の舞台は、美しい。
あまりにも、美しい。

けれど、その美しさの代償として、喜久雄は何かを確実に失っている。

たとえば、笑い方。たとえば、触れられる皮膚。たとえば、“自分”という存在そのもの──

そう、喜久雄はもはや、人間として生きることを選んでいない。

ただ、“芸の亡霊”として、観客の心に焼きついていくのだ。

崩壊していくもの。それでも舞台に立つということ
俊介の崩壊もまた、痛々しいほどに美しい。

最初からすべてを持っていたはずの男が、すべてを削られていく。

血も、名前も、父親からの期待も、そして──舞台に立つ理由までも。

彼が芸を続ける理由が、“誇り”でも“使命”でもなく、
ただ「喜久雄を超えたい」「あの人に並びたい」という、
名もなき感情でしかなかったという真実が、胸を締めつける。

一方で喜久雄も、俊介の存在があったからこそ、ここまで登れた。

互いに、互いを愛し、嫉妬し、必要としていた。

この映画には、明確な“恋愛”の描写はほとんどない。

けれど、私は確信している。

このふたりは、たしかに“愛し合って”いた。

芸で、魂で、人生で。

それは言葉にならない、愛のかたちだった。

世界最高のスタッフが創り上げた“日本映画の奇跡”
この物語をただの“悲劇”に終わらせなかったのは、
まぎれもなく、映画という総合芸術の力だ。

撮影監督は、あのソフィアン・エル・ファニ。
カンヌを制した男が、日本の歌舞伎をどう切り取るか──その答えがこの映画にはある。

光の当て方。闇の深さ。視線の導線。
すべてが、舞台という“虚構”を越えて、生々しい“現実”として立ち上がってくる。

そして美術・衣装・音楽──そのすべてが、息をしている。

特に、種田陽平の手がけた舞台美術は、まるでスクリーンそのものが一枚の襖となり、
観客を「芸の世界」の内側へ引きずり込んでくるようだった。

それは“鑑賞”ではなく、“体験”だった。

そう、この映画は「観る」のではない。

浴びる。呑まれる。そして、溶ける。

その先にあるのは、ただひとつ──魂の再誕だ。

映画『国宝』が私に教えてくれたもの
観終えて数時間が経っても、私はまだ心が静まらなかった。

劇場を出て、街の喧騒に戻っても、
私の耳には、まだ“拍子木”の音が鳴っていた。

「これが、本物の映画だ」

そう、胸を張って言える作品が、今この時代に、日本から生まれた。

主演ふたりの狂気と愛、渡辺謙の圧倒的な存在感、
そして李相日という、現代日本映画界における“執念の詩人”が命を削って作り上げたこの映画は、
“邦画の限界”という言葉そのものを、笑ってぶち壊してくる。

私は言い切れる。

この映画を観ない人生よりも、観た人生の方が、絶対に“豊か”だ。

そして、これを観て震えなかったとしたら──
あなたの中の“芸”は、まだ目覚めていないのかもしれない。

10年に一度の傑作?──いや、これは100年に一度の“奇跡”だ
ラストシーン。

あの一瞬だけで、私はこの作品を一生忘れないと確信した。

カメラが、舞台の奥に引いていく。
白塗りの喜久雄が、客席の無言とまなざしを浴びながら、ただ立ち尽くす。

声もなく、拍手もなく、ただ“静寂”だけが残されたあのラスト──

「これは演劇なのか?映画なのか?それとも、生の断片なのか?」

そう問いたくなるような、極限の映像体験。

まさに、“極限の映画美”。

そして、それを成し遂げたのが、吉沢亮であり、横浜流星であり、李相日であり、映画という魔法だった。

──ありがとう。映画『国宝』。

この時代に生き、この作品を“同じ時間軸で”浴びることができた私は、幸せです。

スクリーンの奥で、まだ舞台に立ち続けているあの人たちに、
心からの拍手を贈りたい。

幕は下りた。でも、魂は、今もまだ震えている。
◎吉田修一/李相日が産むmultiverse東宝歌舞伎

好劇家の誰もが心配した「興味本位」に歌舞伎の世界が扱われるのではないかという懸念を一切払拭し、(現在すべての歌舞伎俳優が所属する)松竹の協力一切なしで本寸法な「芸道もの」映画を21世紀に甦らせた原作=吉田修一/監督=李相日に惜しみない拍手と喝采を!

【クイズ】本作に登場する歌舞伎の演目で、最初に少年喜久雄(黒川想矢)が演ずる『関の扉(と)』の台詞と、中盤で初めて喜久雄(吉沢亮)が俊介(横浜流星)と共演し彼の復帰後にも再共演する『二人道成寺』の伴奏音楽である長唄の詞章(歌詞)に共通する言葉は?

【以下、ネタバレ注意⚠️】











【こたえ】撞木町(しゅもくまち)‥かつて伏見北端にあった大石内蔵助も山科から通った遊廓(伏見南端にあったのは中書島遊廓)。
近年までストリップ劇場「A級伏見(閉鎖前はDX伏見)」が余香を伝えていたが、今は家族葬向け葬祭場に代わられている。

*1 放送大学で、学んでいます 15/12/13
DX伏見・A級伏見・伏見ミュージック
blog.goo.ne.jp/lionosaka/e/5ac98c15d9521bb318d969c2dcc8d8a2/

*2 レトロな風景をたずねて 2020.5.8
遊郭いく人、おけいはん。京阪電車に乗って『撞木町遊郭』を観に行って来た
retro.useless-landscape.com/archives/17852/

『関の扉』で小町桜を切ろうとした関兵衛=大伴黒主(下川恭平)の前に現れた遊女墨染(黒川)は「撞木町から来た」と話す。
『道成寺』では白拍子花子(吉沢/横浜)が踊る廓尽くしの長唄の詞章が「勤めする身は誰と伏見の墨染、煩悩菩提の撞木町より‥」と続く。

*2 ふらふら京都散歩 2023.05.22
墨染寺 | 別名は桜寺。墨染桜が有名な桜の隠れた名所
furafurakyoto.com/bokusenji/

‥‥ってことで、撞木町(今も「撞木町廓入口」と彫られた石柱だけ健在)から一番近いイオンシネマで観て来ましたが、市街地ではないこの映画館にしては珍しく客席は大入りで、開始前からある種の熱気に包まれていました。

なぜ冒頭からマニアックなクイズなど出したかというと、本作の頭で、是枝監督のカンヌ受賞作『怪物』でも主演をつとめた黒川想矢君が演じた少年喜久雄が女形の化粧してもらいながら何度もさらうセリフがまさに「撞木町から来やんした」だったからです。

喜久雄は、立花組組長である父の立花権五郎(永瀬正敏)が催していた豪勢な宴席の余興として、古典歌舞伎の名曲『関の扉』を演じますが、作中で、その姿に大阪歌舞伎の名優花井半二郎(渡辺謙)が見惚れるところから物語が動き始めるのですね。

そして、パンフレットで、原作者の吉田修一が、「まず、冒頭で黒川想矢さんが演じる少年期の喜久雄が演じる「関の扉」からして驚かされるんですけど」とあるように、これが、そのまま歌舞伎座の本舞台に上げても可笑しくないほど見事な歌舞伎の遊女墨染になっていたのです。

黒川想矢だけではなく、相方の下川恭平が演じた関兵衛=大伴黒主も見事に本寸法で感動しました。

最初、予告編で、「任侠の世界に生まれながら」とか女形の化粧が崩れたまま泣きわめく吉沢亮の姿が映されたりして、そもそも1960年代までの邦画全盛期の名匠たちが手がけた芸道ものは別格として、近年、梨園以外の俳優が演じた歌舞伎を扱った作品で、まともなものを観たためしがなかったので、「また歌舞伎や女形の世界を興味本位で描くだけだろう」とたかを括っていたのですが、のっけからノックアウトされた形となりました。

もちろん、世界のケン渡辺が歌舞伎界の重鎮を演ずることは問題ありませんが、いくら何でも女形(実際に演じて見せたの連獅子の後シテだけでしたが)だってのは無理がありました(笑)が、田中泯が人間国宝の女形役者小野寺万菊(この名前も松尾芭蕉が同性愛関係にあったと考える向きもある弟子の杜国に付けた仇名「万菊丸」を想起して意味深)となって現れたとき、かつて戦後の歌舞伎界に「女帝」として長く君臨した六代目中村歌右衛門(1917-2001)が生き返ったのかと心底驚きました。

*3
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/中村歌右衛門_(6代目)

この後、万菊の踊る(そもそも田中泯は舞踊家です)『鷺娘』の舞台を観て、茫然として少年喜久雄は「化け物だ」と独りごちるのですが、六代目歌右衛門もしばしば「化け物」と評される役者でした。

確かに、「万菊」の名前にも隠されているような、歌舞伎とは切っても切り離せない衆道、男色の匂いが本作にないわけではない。

喜久雄と俊介との愛憎表裏の関係は、確かにチェン・カイコー監督、レスリー・チャン主演の超名作『さらば、わが愛/覇王別姫』(1993)を思わせるところも多い。

しかし、喜久雄と俊介の間には、性的な愛情は芽生えそうに見えて実際には全くそちらの方向には傾かない。

むしろ二人の間のホモ・ソーシャルな関係性は、喜久雄の幼馴染の春江(高畑充希)が父半二郎(渡辺)による代役指名が自分ではなく喜久雄に与えられたことのショックから「逃げた」俊介を受け止め、伴侶となることによって示されます。

実は、歌舞伎ファンとしての小生が最も懸念していたことの一つが、歌舞伎役者とジェンダー(性自認や性生活)の問題について不用意に興味本位で扱われることでした。

今や、日本では「ジャニーズ問題」以降、性加害は、強者としての男性が弱者としての女性を対象として行われるだけのものではなくなりました。

それが同性同士であったとしても、年長者などの強者が年少者などの弱者を性的に「搾取」することは、広く「性暴力」であるとの認識が広まりました。

これは正しい日本社会の進歩です。

しかし、許してはならない「性搾取」「性暴力」がある一方で、相互関係による全く問題のない性的な関係性まで「誤認」によって非難、否定される危険性もまた増していることも事実です。

加えて、実際のさまざまな人びとが結びあう「関係性」は、そうした是認されるべき相互関係と非難されるべき搾取的関係との境界は曖昧で、時によって同じ二人の間でも関係性自体が変わることさえあり得ます。

「ジャニーズ問題」と相前後する形で現実の歌舞伎界を襲った「E(俳優名)事件」は、まさにそうした複雑性のなかで混乱の極に追い込まれたEが落ちた大きな陥穽でした。

この事件は、ようやくコロナ禍からのV字回復を劇的に成し遂げつつあった歌舞伎界と、多くの歌舞伎ファンたちに、コロナ禍以上に大きな打撃を与え、そのトラウマで回復しかけた客足をすっかり劇場から遠退かせる結果を招きました。

歌舞伎ファンにとっては、コロナ禍終息で再び大手を振るって芝居見物が出来ると喜んだ極楽気分もつかの間、この凄惨な事件の報に接して、急転直下、天国から奈落に落とされることになりました。

小生も含めて、まだこの事件のことは理解できないし、実際に起きたこととも信じたくない気持ちの方が支配的だったりします。

おそらく、本作に、歌舞伎の勧進元である松竹が一切関与できなかったのは、映画の製作期間と「事件」の余波とが重なったことが原因の一斑ではないかと推測します。

小生は、俳優Eのことを格別に弁護したい訳ではありません。

ただ、歌舞伎とジェンダーの関係を扱うことは、それほどまでにデリケートな問題だということを、ファンではない方々にも理解していただきたいと思う次第です。

やがて、落ち着いて、現代的な視座で、この問題を主題とする作品も世に問われることと思います。

でも、それまでは、せめて「興味本位に」だけは扱って欲しくない。

そうした思いに本作は、ある意味「誠実に」答えているのだと思います。

つまり、あえて歌舞伎役者とジェンダーの問題を扱わずに、真正面からの「芸道もの」として作品世界を構築した。

その意味で、本作は大大大成功だと思います。

黒川想矢と下川恭平の『関の扉』も子ども歌舞伎としてはお釣りが来るほどに見事なら、
渡辺謙と越山敬達(少年俊介)の『連獅子』も本寸法で大健闘、
田中泯の『鷺娘』は夢幻的で美しく、
吉沢亮と横浜流星の『二人道成寺』も素晴らしく感動的(おまけに一回目のダメなところが二回目は改善されている)、
同じ二人の『曽根崎心中』も現実の二人と劇中の二人が二重写しになって凄まじい。

すべての舞台が見事でした。

感動しました。

泣きました。

まさに本格的な「芸道」映画です。

‥‥言えば、難点はありますよ。

幼い俊介と徳次(下川恭平)が、凶弾に斃れた父の、親分の仇を討とうとして失敗したのはどうしてなのか、とか、1960年代に歌舞伎役者の花井半二郎がマンション暮らしはないだろう、とか、人間国宝の名優が時代遅れの安宿で寝込んでいるのは変だ、とか‥‥

そもそも、1960年代の大阪が歌舞伎全盛期のように描かれているが、実際には、その頃から関西=上方歌舞伎は坂を転げるような斜陽期で世紀末には絶滅寸前近くまで衰退してしまっていたのに、とか、確かに六代目歌右衛門は戦後劇界に長く君臨したけれど、どの時代も基本的には立役(男性役)の歌舞伎俳優の人口の方が多いはずなのに本作に登場する主要な役者はみな女形になっているとか、根本の設定が実際の歌舞伎界とは大きく異なります。

でも、それらも、もろもろの事情により松竹の協力が一切得られないなか(*4 )で製作陣が「選択」した、つまりは現実の歌舞伎界にあえて「抵触しないように」作り上げたパラレルワールドとしての、あるいはメタバース的な歌舞伎界だと考えれば何の問題もありません。

*4 いやいや、エンドロールまで、てっきり松竹もガッツリ協力しているものだとばかり思って観てました。
‥‥だって「浪花座」が場内含めて先斗町歌舞練場(南座改修中だった2016年の吉例顔見世興行の会場となり新雀右衛門が娘道成寺を披露)だったのは花道の後ろに客席がないことを観るまでもなく一目瞭然だし、‥‥

*4-1 鴨川をどり 先斗町歌舞練場
www.kamogawa-odori.com/kaburenjou/

*4-2 當る酉歳 吉例顔見世興行
  五代目中村雀右衛門襲名披露
www.kabuki-bito.jp/theaters/other/play/501

片岡愛之助が座頭として毎年歌舞伎公演が人気の出石永楽館は金毘羅歌舞伎同様に文化財の(但し兵庫県指定で明治期の)芝居小屋だし、‥‥

*4-3 近畿最古の芝居小屋 出石永楽館
eirakukan.com

*4-4 愛之助が語る「第十三回 永楽館歌舞伎」
www.kabuki-bito.jp/news/8411

南座が「京(みやこ)座」として出てくるし、終盤で歌舞伎座も出てくるし(後二者は松竹直営)で、‥‥

そしたら歌舞伎座だと思って観せられていたのは、ちょうどビルになる前の歌舞伎座(現在の歌舞伎座ビルは先代の外観を踏襲して隈研吾が設計)と同じ設計者が建てた大津の旧琵琶湖ホテル(びわ湖大津館)を歌舞伎座仕立てにデコレーションして撮影してしたんだそうな。

*5 びわ湖大津館のご案内
www.biwako-otsukan.jp/goannai.html

南座の方は現在の国登録文化財の劇場外観を映していたけど、建物の外観についてはオーナーの許諾なしに自由に二次使用できるって平等院ジグソーパズル裁判の判例に則って松竹の許可なしに映してるって訳ですね。

*6 平等院パズル訴訟に見る、建造物撮影写真の商用利用をコントロールするむずかしさ
2020/10/23あ 杉浦健二
storialaw.jp/blog/6173

閑話休題

小生としては本作の減点要素は、ラストの締め方かな。

歌舞伎ファンの懸念をよそに早くも傑作の誉れ高い本作。

‥‥ただ、せっかく本気の舞台によって物語を推進しておきながら、最後の最後は「お空のお星さま」頼みってのだけは、いただけませんでした(吉沢の老けメイクも変だったし)。

あと、本編とは全く関係ないけれど、パンフレットで、早大演劇博物館の児玉竜一館長が
歌舞伎界で「これほど実子主義になったのは戦後のこと」と明記されているのに、
別のページで寺島しのぶが、
「現実の歌舞伎界では、血を分けた息子が跡を継ぐことが前提なので、実の息子である俊介を差し置いて喜久雄にチャンスを与える、というのは実際にはあり得ない」
とか超保守的なコメントを載せているのは、弟が音羽屋総帥の「八代目尾上菊五郎」襲名披露興行中で、彼女とフランス人パートナーとの間の息子を「初代尾上眞秀(まほろ)」として舞台に上げているだけに一番怖かったな。

‥‥いずれにしましても、
松竹からのパッケージとしてではなく、吉田修一の原作準備から正味の歌舞伎俳優として支援いただいた成駒家=四代目中村鴈治郎丈(「丈 ジョウ」は歌舞伎俳優の敬称)には心から感謝とお祝いの言葉を贈りたい。
‥‥あなたが指導した東一郎(吉沢亮)も半弥(横浜流星)も見事、銀幕に大輪の花を咲かせましたよ、と。

そして成駒家一門の中村翫之(かんの)丈・中村鴈大丈、舞踊界から出演された若柳竜公さん・花柳綱仁さん、舞踊指導の谷口裕和さん、長唄連中・常磐津連中・清元連中・鳴物連中の皆さん、出演者、製作スタッフの皆さん、本当にお疲れさまでした。

おかげさまで銀幕でホンマもんの立派な歌舞伎を拝むことが出来ました。

《お薦め動画》
*7 【トークノーカット】吉沢亮、横浜流星、高畑充希、森七菜、渡辺謙ら登壇『国宝』完成報告会
シネマトゥデイ 2025年4月23日
m.youtube.com/watch?v=pVq6DhvZx6M&t=6s

**上記動画の特に 30:42〜の田中泯さんのコメントが素晴らしく必聴です。
「こんなに踊りと言葉が一緒になって人々に訴える踊りを持っているのは日本だけです」とお話しされています。
本作に関しても、「日本スゴい」と言った、やや浅薄な感想が目立つなか、終生「踊り」に真剣に取り組んで来られた方だけに説得力のあるご発言でした。

《実際の歌舞伎役者さんによる本作の感想》
*8 市川猿三郎オフィシャルブログ「市川猿三郎 二輪草紙」
映画「国宝」を見た感想 2025-06-15 19:33:08
ameblo.jp/enzaburou/entry-12910733333.html

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