菅野榮子(かんの・えいこ)さんは 79 歳。孫に囲まれた幸せな老後を送るはずが、福島第一原発の 事故で一転する。榮子さんが暮らす福島県飯舘村は全村避難となり、ひとりで仮設住宅で暮らすこ とになった。支えは親戚であり友人の 78 歳の菅野芳子(かんの・よしこ)さんだ。芳子さんは避難生 活で両親を亡くし、ひとりで榮子さんの隣に移ってきた。「ばば漫才」と冗談を飛ばし、互いを元気 づける、2人の仮設暮らしが始まった。 榮子さんの信条は、食べるものは自分で作ること。ふたりで畑を耕し、トマト、キュウリ、芋、 大豆、大根、様々な作物を収穫する。かぶや白菜の漬物、おはぎ、にんじんの胡麻和え・・・、「おい しいよ」と笑顔で食卓に手料理を並べる。村の食文化を途絶えさせたくないと、昔ながらの味噌や 凍み餅(しみもち)の作り方を、各地に出向いて教えるようにもなった。 飯舘村では帰村に向けた除染作業が行われている。だが高い放射線量、変わり果てた風景・・・。ふ たりは先の見えぬ不安を語り合い、泣き笑いながら、これからを模索していく。
1895年から1945年までの51年間、日本の統治下にあった台湾で教育を受け、日本語を話すことができる“日本語世代”の人々。酒井充子監督が“日本語世代”の5人にインタビューを行い、当時や戦…
>>続きを読む舞台は越後妻有(えちごつまり)の里山。この雪深い村に都会から移り住んだ木暮さん夫婦は、茅葺き屋根の古民家を修復し、見よう見まねで米を作って暮らしてきた。ゴリゴリと豆を挽いてコーヒーを淹れ、…
>>続きを読む東京で働くひとり娘の「私」(監督・信友直子)は、広島県呉市に暮らす90代の両親を1作目完成後も撮り続けた。 2018年。父は家事全般を取り仕切れるまでになり日々奮闘しているが、母の認知症は…
>>続きを読む戦後75年目の残留。生き別れた者が伝える、日本という国の今。「私を日本人と認めてほしい!」-フィリピン残留日本人 。「私は日本人。でも言葉がわからないの!」-中国残留孤児。太平洋戦争以前、…
>>続きを読む東日本大震災から6年目を迎える 宮城県、岩手県、福島県で前を向いて生きる人々の姿を優しく映し出すドキュメンタリー。 家族を失った夫婦、震災を風化させないための語り部、伝統を受け継いでいく…
>>続きを読む広島県呉市。この街で生まれ育った「私」(監督・信友直子)は、ドキュメンタリー制作に携わるテレビディレクター。18歳で大学進学のために上京して以来、40年近く東京暮らしを続けている。結婚もせ…
>>続きを読む幼い頃から東京暮らしのイラストレーター・ちゃず。結婚4年目の時、仕事に追われる東京での毎日に息苦しさを感じていたちゃずは、都会に住みたい夫を東京に残し、単身で奄美群島・加計呂麻島に期間限定…
>>続きを読む©Mizue Furui 2016